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三菱の歴史

初代社長  岩崎彌太郎初代社長 岩崎彌太郎 在任1873〜85 明治6〜18年
第二代社長 岩崎彌之助第二代社長 岩崎彌之助 在任1885〜93 明治18〜26年
第三代社長 岩崎久彌第三代社長 岩崎久彌 在任1893〜1916 明治26〜大正5年
第四代社長 岩崎小彌太第四代社長 岩崎小彌太 在任1916〜45 大正5〜昭和20年
三菱の誕生

 三菱の歴史は、明治維新に始まる近代日本と歩みを同じくしています。この近代日本誕生の時代に登場したのが、三菱の基礎を築いた創業者岩崎彌太郎(いわさきやたろう)です。土佐藩(今の高知県)は、1870(明治3)年に3隻の汽船で九十九(つくも)商会として海運事業を開業、彌太郎がその経営・監督の任に当たりました。これが三菱の出発点です。

 その後九十九商会は、三川商会と名を変え、1873(明治6)年には彌太郎自身が社長になって“三菱”を名乗り、三菱商会、三菱蒸汽船会社、郵便汽船三菱会社と社名を変えながら、活発な活動を展開していきました。

 しかし、1885(明治18)年には、郵便汽船三菱会社は反三菱派が後押しする政府保護の共同運輸会社と激しい競争にさらされました。2年半におよぶ不毛の戦いの末に2社は合併することになり、三菱の海運部門は新会社の日本郵船会社に営業譲渡し、多くの社員が移籍しました。この競争のさなか、彌太郎はその波瀾万丈ともいえる生涯を、まだ50歳の若さで終えます。

明治18年頃の三菱重工業長崎造船所(当時 飽の浦機械工場)

明治18年頃の三菱重工業長崎造船所
(当時 飽の浦機械工場)

 海運部門の全盛期に彌太郎は着々と事業の多角化を図っていました。1873(明治6)年の吉岡鉱山や1881(明治14)年の高島炭坑の買収に始まる鉱業(三菱鉱業の前身、現・三菱マテリアル)、1884(明治17)年の官営長崎造船所を借り受けて進めた造船業(三菱造船の前身、現・三菱重工業)がそれです。また、東京海上保険(現・東京海上日動火災保険)、明治生命保険(現・明治安田生命保険)、三菱為替店(現・三菱東京UFJ銀行)も彌太郎の時代に設立されました。

三菱の多角化

 1885(明治18)年に第ニ代社長に就任した彌太郎の弟の岩崎彌之助(いわさき やのすけ)は日本郵船を独立させた後、三菱社を設立し、鉱業、造船を中心に海から陸へ事業展開を図り(やがて日本郵船も三菱に復帰)、さらに銀行、保険、倉庫業にも力を注ぎました。

明治23年頃の丸の内 通称「三菱ヶ原」

明治23年頃の丸の内 通称「三菱ヶ原」

 1890(明治23)年、政府の要請で買い手がなくて困っていた丸の内と神田の土地10万余坪を買い取り、現在の丸の内ビジネスセンターのもととなるオフィス街の建設を計画したのも彌之助です。

 1893(明治26)年に彌之助は軌道に乗った三菱社を三菱合資会社に改組し、社長を彌太郎の長男久彌に譲りましたが、1896(明治29)年には、その経営手腕を買われ、第四代日本銀行総裁に就任、活躍しました。

三菱の分権化

 第三代社長岩崎久彌(いわさきひさや)は20年にわたって三菱を率いましたが、三菱合資会社に総務、鉱山、炭坑、造船、銀行、営業、地所の各部を置き、今日でいう事業部制を確立して経営の合理化を図りました。長崎造船所の拡張、神戸、下関両造船所の新設、神戸製紙所(現・三菱製紙)、麒麟麦酒(キリンビール)の設立、彌之助の次男俊彌による旭硝子等の創業もこの時代のことです。

三菱1号館(明治27年)三菱合資会社の本社

三菱1号館(明治27年)
三菱合資会社の本社

 久彌は、慶応義塾に学び、のち米国ペンシルヴァニア大学へ留学、同大学を卒業、近代的経営精神を身につけた人で、三菱の発展に大きな貢献をしました。 1914(大正3)年、第一次世界大戦勃発の際、久彌は社員に対し、「人格の高潔」と「行動の公正」が事業活動の要諦であると訓示しています。

 久彌はまた、六義園(駒込)や清澄庭園(深川)を東京市に寄付し、小岩井農場(岩手)や末広農場(千葉県)を自ら経営し、(財)東洋文庫を設立するなど幅広い活動をしました。

三菱の分社化と本社解散

 第一次大戦中の1916(大正5)年、彌之助の長男、岩崎小彌太(いわさき こやた)が第四代社長に就任。小彌太は、その後30年近く三菱全事業を統括し、日本の産業の発展に尽くしました。

 小彌太は事業部制を更に進めて事業毎の分社化を図り、今日の多くの三菱各社を発足させました。三菱造船(1917、現・三菱重工業)、三菱商事(1918)、三菱鉱業(1918、現・三菱マテリアル)、三菱銀行(1919、現・三菱東京UFJ銀行)、三菱地所(1937)などのほか、日本光学工業(1917、現・ニコン)、江戸川バリウム工業所(1918、現・三菱ガス化学)、三菱電機(1921)、三菱信託(1927、現・三菱UFJ信託銀行)、三菱石油(1931、現・JXホールディングス)、新興人絹(1933、現・三菱レイヨン)、日本タール工業(1934、現・三菱化学)、化工機製作(1935、現・三菱化工機)、三菱製鋼(1942)などです。こうした重化学工業を主軸とした展開が、工業技術の蓄積を生み、「技術の三菱」と言われるようになりました。1937(昭和12)年、小彌太は三菱合資会社を株式会社三菱社に改組し、1943(昭和18)年、三菱本社と改称しました。かたわら、1940(昭和15)年に株式を公開、岩崎家の事業であった三菱は、1945(昭和20)年には本社発行株の半数近くが一般投資家のものになっていました。

日本初の量産乗用車三菱A型1号(大正6年)

日本初の量産乗用車三菱A型1号
(大正6年)

 1945(昭和20)年8月の終戦とともに三菱は大きな転機を迎えます。連合国総司令部(GHQ)の財閥解体の方針により、同年10月、三菱本社の解散が決定されました。小彌太は、「三菱は国家・社会に対し不信行為を行ったことはなく、国策に従い、国民としてなすべき当然の義務を果たしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」として抵抗しましたがかなわず、同年12月、病のため世を去り、四代70有余年にわたる岩崎家による三菱の事業に終止符が打たれました。

新たなるスタート
日本光学(現・ニコン)のニコンI型カメラ(昭和22年)

日本光学(現・ニコン)のニコンI型カメラ(昭和22年)

三菱テレビ第1号(昭和27年・三菱電機)

三菱テレビ第1号(昭和27年・三菱電機)

愛・地球博 三菱未来館@earth(平成17年)

愛・地球博 三菱未来館@earth(平成17年)

 1946(昭和21)年9月、三菱本社は正式に解散し、三菱各社は戦後の混乱の中で、それぞれ独立した会社として苦難の道を歩み始めました。GHQの指令は、関係会社の社長や幹部の追放と解散に及び、三菱の商号や商標の使用も厳しく制限されました。

 その後、1952(昭和27)年のサンフランシスコ講和条約の発効によって日本は国際社会に復帰しました。三菱の商号や商標の使用も許され、各社も漸次三菱の名称に復帰していき、1954(昭和29)年には、三菱の主要関係会社の会長・社長が親睦を深め三菱の信用の維持・向上を図る会合として「三菱金曜会」が発足しました。

 1954(昭和29)年には三菱商事の大合同、さらに10年後の1964(昭和39)年には地域別に3社に分割されていた三菱重工業の合併が実現しました。これらの動きは、本社を頂点とする戦前の三菱が復活したのではなく、各社が対等の、新しい三菱の誕生を意味します。

 三菱グループは創業100年記念事業として、1969(昭和44)年に三菱財団を設立。学術研究や社会福祉に助成を行っています。三菱各社でも学術研究、奨学金、社会福祉、国際交流、文化、スポーツ支援などを目的としたさまざまな財団や基金を設け、活発に活動しています。

 また、1970年の大阪万博に三菱各社共同で三菱未来館を出展したのを機に、以後、沖縄海洋博、神戸ポートピア博、つくば・科学万博、福岡・アジア太平洋博、横浜博、名古屋・世界デザイン博、大阪・花の万博、愛知万博(愛・地球博)、さらには各地の地方博にも三菱館を出展し、社会とのつながりを強めてきました。

 日本の近代化とともに発展を遂げた三菱グループは、現在、世界100余カ国で資源開発からIT産業分野まで、あらゆる事業に取り組んでおり、より豊かな社会の実現に貢献していくことを目指しております。