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三菱人物伝

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雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・ vol.01 岩崎四代雲がゆき雲がひらけて岩崎久彌物語vol.01 岩崎四代

鹿鳴館の中では内外の紳士淑女による舞踏会が盛り上がっていたであろう1885(明治18)年の寒い冬、岩崎彌太郎は胃癌の激痛と闘っていた。枕もとににじり寄った弟の彌之助や長男の久彌にうめくように言った。

「志したことの十分の一か二しかできないうちにこんなざまになってしまった。未練があるわけではないが、もう一度盛り返したい…」

土佐藩の船3隻を借りて大阪で海運事業を始めた九十九商会だったが、明治6年、彌太郎が社主となって初めて三菱を名乗り、本拠も東京に移した。国内はもとより英米のライバルとも激しい競争を展開、台湾出兵や西南の役では軍需輸送を一手に引き受け、創業数年にしてわが国の海運界を制覇した。明治15年、三菱の独走を阻止すべく渋沢栄一や三井が中心になって共同運輸会社が設立され、またまた壮絶な競争が勃発、わが彌太郎は三菱の存亡をかけたその戦いの真っ最中に命尽きたのだった。幕末と明治維新の変革の中を駆け抜けた彌太郎、50歳だった。

兄の遺志を引き継いだ2代目彌之助は、富国強兵、殖産興業の追い風を受けて、「海から陸へ」事業の転換を図った。高島炭坑に加え筑豊の炭坑を次々に傘下に収め、尾去沢など銅鉱山も手中にした。政府から借り受けた長崎造船所は明治20年に買収、積極的な設備投資を行った。

財源に苦しむ政府要請に応え、草茫々の丸の内10万坪を破格の高値で買い取ったのもこの時期である。彌之助は何に使うつもりかと聞かれて、

「なあに、竹を植えて、虎でも飼うさ」と笑って答えた。

小彌太の動、久彌の静

時代は下って1916(大正5)年、彌之助の後を継いで社長を20年余つとめた3代目久彌は、彌之助の子・小彌太にその座を譲った。第一次大戦の軍需景気のさなかだった。小彌太は先代久彌のとった事業部制をさらに発展させ、三菱合資会社を持ち株会社化し、各事業部門を分系会社として独立させた。造船、製鉄、商事、鉱業、海上火災保険、銀行、倉庫…。

1941(昭和16)年、第二次大戦が始まった。小彌太は幹部社員に対して訓示した。

「かくなる上は三菱の総力をあげて産業報国に努めよう。だが、再び英米の友人と相携えて人類のために努める日が来るだろうことを忘れるな」

まことに勇気ある発言であった。

終戦後、連合国総司令部は財閥解体をめざし三菱の自発的解散を指示したが、小彌太は病魔に冒された身に鞭を打って最後まで抵抗した。

「三菱は…国民としてなすべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない」

強烈な個性の岩崎4代。反骨精神と国家のためという明確な意志。それは関が原の戦いで西軍についたがゆえに以後200余年、辛酸をなめた長宗我部武士の魂であり、黒潮流れる土佐のいごっそうの気性である。坂本竜馬しかり中岡慎太郎しかり。しかし彼らと違うのは菱形三枚重ねの家紋・三階菱。これぞ甲斐武田の割菱に発する。彌太郎ら岩崎4代を考えるときに忘れてはならない。

これは3代目久彌の物語である。初代彌太郎のもとに生まれ、わが国の近代化の中で90年の長きを生き、4代目小彌太をも看取った。動に対して静、剛に対して柔。久彌は、何を考え、何をしたのか…。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2000年5月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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