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三菱人物伝

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雲がゆき雲がひらけて ・・・岩崎久彌物語・・・ vol.10 社会のために雲がゆき雲がひらけて岩崎久彌物語vol.10 社会のために

久彌が50歳のとき、36歳の従弟・小彌太に三菱合資会社の社長を譲った。交替劇は世間には唐突に映った。1916(大正5)年、第一次大戦の好況のさなか、事業は順調でさらなる飛躍が期待されていた。久彌社長、小彌太副社長のコンビでの理想的なコーポレート・ガバナンスと見られていた。交替の必要性は誰にも感じられなかった。

しかし、そこが久彌である。こういうときだからこそ後継者に委ねる。無私恬淡。誰にも相談せずに決断した。以後、自分が選んだ小彌太社長を信頼し、三菱合資会社の経営に口をはさむことはなかった。

社長時代、事業の社会性とか公正な競争に心をくだいた久彌だったが、引退後も農牧事業を楽しむかたわら、社会への貢献に気を配った。その最たるものが東洋文庫の設立であり、清澄庭園、六義園の東京市への寄付であろう。いずれも久彌が愛してやまなかったものである。

東洋文庫。世界の五指に入る東洋学研究センター。所蔵する文献85万冊は、久彌の蔵書3万8000冊に加え、中華民国総統顧問G・E・モリソン博士の蔵書が母体になっている。彼は元ロンドンタイムズの北京特派員で、日露戦争を欧州に報道し続けたことで有名になり、そのまま中国に居着いた。集めた文献2万 4000冊、地図1000枚。中国を去るにあたり、散逸を避けるため、漢籍も洋書も分かる学者か機関に一括して譲りたがった。ハーバードやエール大学が興味を示したが、久彌が大正6年、言い値で譲り受けた。

久彌は欧文書籍中心のモリソン文庫をさらに補強すべく和漢の文献の収集に尽力、対象もアジア全域に拡大していった。文庫が丸の内の赤レンガのビルの中にあったころ、芥川龍之介なども利用している。大正13年に財団法人東洋文庫設立。文京区駒込に4階建ての書庫と研究棟を建設し、財団の維持基金も拠出。以来、東洋文庫は内外の学者の東洋研究の場となって今日に至っている。

期するところは社会への貢献

江東区深川の清澄庭園は明治11年に彌太郎が大名屋敷跡など約3万坪を買い上げ、自ら指揮して日本庭園にしたもの。池のほとりにはジョサイア・コンドル設計の洋館があった。深川親睦園と命名し、社員クラブ兼ゲストハウスにしていた。しばしば各国、各界の要人を招いてガーデンパーティが催された。大正12 年、関東大震災。膨大な犠牲者を出した東京市の災害復興計画に防災緑地の確保が盛り込まれた。久彌は率先して深川親睦園を東京市に寄付した。今日も都民に親しまれている。

一方、文京区駒込の六義園は、五代将軍綱吉に仕えた柳沢吉保の下屋敷だった。明治11年、彌太郎が周辺の土地も含めて買い取り、日本庭園として整備した。久彌は、新婚時代をこの3万余坪の六義園にある邸宅で過ごし、やがて茅町本邸が完成して移り住んだ。しかし次第に、この庭園を自分たちが独占していることを心苦しく思うようになった。1938(昭和13)年、寄付を申し出る。東京市は記念式典を行い感謝状を贈ろうとしたが、久彌は固辞した。

久彌は、スタンドプレーを嫌い、自然体を旨とした。「期するところは社会への貢献」という彌太郎以来の考え方は、三菱の精神として今日も各社に受け継がれている。

文・三菱史料館 成田 誠一
川口 俊彦

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年2月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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