| 岩崎久彌 略年表/ストーリー | 年号/年齢 | 歴史上の出来事 |
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土佐国安芸郡井ノ口村に生まれる
三菱三代目社長岩崎久彌。初代彌太郎のもとに生まれ、叔父・彌之助の後を継いで社長を20年余つとめ、第一次大戦の軍需景気のさなかに彌之助の子・小彌太にその座を譲り、その小彌太をも看取った。わが国の近代化の中で90年の長きを生きた久彌は、何を考え、何をしたのか…。 |
慶応元年
/1865(0歳) |
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慶應義塾に入学 |
明治8年
/1875(9歳) |
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慶應義塾を退学し三菱商業学校に入学 |
明治11年
/1878(12歳) |
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父彌太郎没 |
明治18年
/1885(19歳) |
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米国へ留学 |
明治19年
/1886(20歳) |
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ペンシルヴァニア大学ウォートン・スクールに入学
三菱商会の進出にあわせ、土佐・井ノ口村から一家とともに大阪、東京へと移動。慶應義塾、三菱商業学校を経て、米国ペンシルヴァニア大学のウォートン・スクールに進んで財政学などを学んだ。祖母・美和の教えを最も色濃く受け継ぎ、若いころから決して奢らず、他者への配慮を忘れなかった。 |
明治21年
/1888(22歳) |
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(彌之助、丸の内の土地ほか約10万坪の払い下げを受ける) |
明治23年
/1890(24歳) |
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ペンシルヴァニア大学ウォートン・スクールを卒業、帰国 三菱社の副社長に就任 |
明治24年
/1891(26歳) |
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三菱合資会社が発足、社長に就任(彌之助は監務に) |
明治26年
/1893(28歳) |
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三菱第1号館竣工、本社丸の内へ 保科寧子と結婚、六義園に新居を構える |
明治27年
/1894(29歳) |
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銀行部・売炭部・鉱山部を設置
28歳の若さで三菱合資会社の社長に就任した久彌は日本の近代産業の勃興と発展の時期だった明治から大正にかけての20余年に事業の多角化をすすめ各部への権限の移譲を断行。ワンマン・カンパニー的経営体質から近代的マネジメント・システムへの脱皮を実現した。 久彌の社長在任期間はまさに丸の内オフィス街建設の時期でもあった。社長就任の翌年、ジョサイア・コンドル設計による三菱第1号館が竣工。以後、第2号館、第3号館と続き、ロンドンを彷彿とさせる街並みはやがて「一丁倫敦」と呼ばれるようになった。 |
明治28年
/1895(30歳) |
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茅町本邸竣工、転居
佐渡・生野両鉱山および大阪製煉所の払い下げを受ける 現在「都立旧岩崎邸庭園」として公開されている茅町本邸。ジョサイア・コンドルの設計によるイギリスジャコビアン様式を基調にし、久彌が留学時代に親しんだペンシルヴァニアのカントリーハウスのイメージも取り入れた木造の建物に、久彌は家族とともに50年にわたり暮らした。 政府の払い下げを受け、三菱は、明治14年の高島炭坑を手始めに次々に炭坑や鉱山を買収。久彌は更に買い進め、生野鉱山、佐渡鉱山、大阪製煉所の一括落札に成功。また、長崎造船所の常陸丸建造を成し遂げ、海から陸へと事業展開を大きく広げた。 |
明治29年
/1896(31歳) |
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荘田平五郎を本社管事兼長崎造船所支配人として長崎に派遣
人を信頼し人に信頼された久彌は優秀な専門家や経営幹部を抜擢し事業を任せた。中でも荘田平五郎と豊川良平の存在は大きく、荘田は日本郵船ほか多数の企業創立に参画、長崎造船所の支配人、東京海上、明治生命の会長などをつとめ、豊川は政財界に人の輪を広げて久彌を支えた。 |
明治30年
/1897(32歳) |
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小岩井農場、岩崎家の所有になる |
明治32年
/1899(34歳) |
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神戸造船所を開設 |
明治38年
/1905(40歳) |
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副社長に小彌太を任命 |
明治39年
/1906(41歳) |
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朝鮮半島において東山農場を開設 |
明治40年
/1907(42歳) |
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彌之助没、会社職制改革・各部独立採算性の実施 |
明治41年
/1908(43歳) |
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臨時北海道調査課を設け北海道の炭坑開発に着手
今はないがかつて久彌が情熱を注いだ事業がいくつもある。現在の東北本線にあたる上野―青森間の鉄道建設を始め、山陽鉄道、九州鉄道、筑豊鉄道、北越鉄道などの私営鉄道事業への出資や米作、発電、水道事業など。それぞれに時代の役割を果たした。 彌太郎の時代から交流があったウォルシュ兄弟が神戸で経営していた製紙工場を買い取り神戸製紙所(後に三菱製紙)を設立。また、横浜では明治屋、日本郵船と共に麒麟麦酒(キリンビール)を設立。起業家への支援も盛んに行った。 |
明治44年
/1911(46歳) |
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社長退任(小彌太が社長に)
小彌太を副社長に迎えた頃から久彌は多くの時間を小岩井農場で費やすようになった。牧畜のみならず、競走馬の育成やホルスタイン牛の酪農製品の製造販売にも注力。農作は燕麦、とうもろこし、じゃがいも、大豆など。地道な植林事業により、かつては見渡す限りの荒野だった大地を緑の森に変えた。 |
大正5年
/1916(51歳) |
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深川清澄別邸を東京市へ寄付、(財)東洋文庫を設立
社長時代に事業の社会性や公正な競争に心をくだいた久彌は、引退後も農牧事業のかたわら、社会への貢献に気を配った。その最たるものが東洋文庫の設立であり、清澄庭園、六義園の東京市への寄付といえる。 |
大正13年
/1924(59歳) |
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ブラジルで農牧事業を開始 |
昭和2年
/1927(62歳) |
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駒込別邸六義園を東京市に寄付 |
昭和13年
/1938(73歳) |
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妻・寧子没 |
昭和19年
/1944(79歳) |
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岩崎小彌太社長没 |
昭和20年
/1945(80歳) |
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((株)三菱本社解散) |
昭和21年
/1946(81歳) |
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末広農場(千葉県)に隠栖
戦後、財閥家族に過酷な財産税が課された。久彌は茅町本邸を離れ、末広農場に移り住んだ。エリザベス・サンダース・ホームを開設し、混血孤児たちの救済にあたる長女・澤田美喜の相談にのった。昭和30年の冬、静かに90年の生涯を終えた。 |
昭和24年
/1948(83歳) |
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(三菱本社清算を結了、三菱の商号使用制限解除) |
昭和27年
/1952(87歳) |
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12月2日、末広農場の別邸に没す(徳幢院壽岳明輝居士) |
昭和30年
/1955(90歳) |
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(年齢は西暦の誕生日における満年齢)

