| 岩崎小彌太 略年表/ストーリー | 年号/年齢 | 歴史上の出来事 |
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8月3日 東京に生まれる
明治に生まれ、激動の昭和初期の約 20年間に三菱グループの企業理念を確立させた4代目社長、岩崎小彌太。第二次大戦後、GHQの財閥解体要求に断固反対を貫いた。社長とは何か、企業の目標は何かを考える時、 日本の近代経営史のなかで最も気になる男である。 |
明治12年
/1879(0歳) |
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学習院に入学、伯父岩崎彌太郎没 |
明治18年
/1885(6歳) |
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東京高等師範附属学校小学科入学 |
明治22年
/1889(10歳) |
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東京高等師範附属学校尋常中等科に進学 |
明治24年
/1891(12歳) |
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同卒業後 第一高等学校に入学、父岩崎彌之助日本銀行総裁に就任
利発だがおとなしい少年だった小彌太は、中学から寮に入り、粗衣粗食の生活で文武両道を鍛えられた。一高(現東大教養学部)に進学し、生涯の友となる大久保利賢(のち横浜正金銀行頭取)や中村春二(成蹊学園の創立者)らと交わり、勉強とボートに熱中。内気な少年から積極的で活動的な青年に成長した。 |
明治29年
/1896(17歳) |
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東京帝国大学法科大学に入学 |
明治32年
/1899(20歳) |
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東京帝国大学法科大学中退、英国に向け出発 |
明治33年
/1900(21歳) |
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ケンブリッジ大学ペンブローク・カレッジへ入学
現在の東京大学法学部を中退し、2年の準備期間を経てケンブリッジに本科学生として入学。知的好奇心旺盛な小彌太は新しい社会主義思想、勃興期の労働運動、新興の学問としての経済学などを貪欲に吸収した。帰国したら政治家になって日本の改革をしたいと真剣に考えていた。 |
明治35年
/1902(23歳) |
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ケンブリッジ大学ペンブローク・カレッジ卒業、バチェラー オブ アーツ取得
ケンブリッジの学生生活はすべてが紳士風でエレガントなものだった。社交マナーのため、小彌太の交際費は年間数千ボンドに跳ね上がったが英語力もメキメキ上達。1905年、小彌太は無事優秀な成績で卒業し、5年ぶりに帰国の途についた。 |
明治38年
/1905(26歳) |
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帰国、5月三菱合資会社副社長に就任 |
明治39年
/1906(27歳) |
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島津孝子と結婚 |
明治40年
/1907(28歳) |
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父岩崎彌之助没、男爵を襲爵、正五位に叙せらる
英国から帰国後2年間に、たて続けに一生を決める重大事件が小彌太に降りかかった。まず、父からの三菱入社命令。政治家になり日本社会を改革したいと考えていた小彌太が承諾するまでには何日もかかった。また、父の希望による結婚。そしてその翌年、父岩崎彌之助がこの世を去った。 |
明治41年
/1908(29歳) |
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横浜正金銀行取締役に就任 |
明治44年
/1911(32歳) |
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私立成蹊実務学校設立
小彌太は明治の終わり頃から音楽家の留学援助とオーケストラの育成に力をいれた、企業メセナの先駆者だった。自らクラシック音楽を趣味としてチェロを習ったが、山田耕筰のドイツ留学や帰国後の音楽活動を支援し、日本最初の本格的な民間管弦楽団となる東京フィルハーモニー会を組織した。 |
明治45年
/1912(33歳) |
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スポーツマンでもあった小彌太は33歳の時、後の日本剣道会の長老中山博道師範に入門。駿河台の岩崎邸に道場を作り、会社の有志で稽古した。また、社員の精神的修養、人格の錬磨を目的に、現在の三菱養和会の前身三菱倶楽部を設立。丸の内にも武道場を設置するなど熱心に取り組んだ。 |
大正4年
/1915(36歳) |
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従四位に叙せられ勲三等瑞宝章を授与さる |
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三菱合資会社社長に就任
第一次世界大戦の軍需景気最中に小彌太は久彌から社長の座を譲り受けた。休戦後に復興需要から起きた投機ブームは短命で、東京・大阪の株式市場は大暴落となった。小彌太は三菱商事の幹部に一攫千金を夢み射利投機に走る風潮に倣ってはならないと説いた。 社長就任後の数年間で、小彌太は後の三菱グループの基礎をつくる大仕事をした。すなわち、会社の各事業部門を独立の株式会社に分離し、本社は持ち株会社として離れて統括すること、また順次株式を公開していくこと。『国家の為』を方針に、一家に独占していた資本の一部を社会公衆に分配した。 |
大正5年
/1916(37歳) |
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財団法人成蹊学園理事長に就任 |
大正8年
/1919(40歳) |
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紺綬褒章を授与さる
丸の内のシンボルだった旧・丸ビルは、小彌太の決断によって建てられたものだった。それまで『一丁ロンドン』を呼ばれた英国式赤煉瓦ビルが建ち並ぶ丸の内に、エレベーター付きの米国式鉄骨高層ビルを建て、中に商店街も作った。昭和モダンの幕開けを象徴し、丸の内ビジネス・センターの発展のきっかけになった。 丸ビル開館直後に関東大震災が発生。東京市全面積の45%が焼失した。三菱関係の建物は倒壊しなかったが、火に追われた下町の住民が殺到し、東京駅前、丸の内、皇居前広場は修羅場と化した。三菱本社では、けが人の手当てや飲み水・食糧を提供し、神戸・佐渡・名古屋などの三菱各社が救援に急行した。 |
大正11年
/1922(43歳) |
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静嘉堂の新文庫を玉川砧村岡本に建設 |
大正13年
/1924(45歳) |
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私立成蹊高等学校設立 |
大正14年
/1925(46歳) |
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勲二等瑞宝章を授与さる
関東大震災後の不良債務処理の遅れと、投機商法に対する銀行の不良貸し出しを背景に、一部商社が破綻し、全国の銀行が休業に追い込まれる事態が発生した。三菱銀行会長の串田は東京銀行集会所会長として事態収拾に努めた。この金融恐慌は、世界大恐慌へと続く。 |
昭和3年
/1928(49歳) |
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母早苗没、麻布鳥居坂に転居 |
昭和4年
/1929(50歳) |
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弟俊彌没 |
昭和5年
/1930(51歳) |
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姉松方繁子没、二年間の病より快復し社務に復帰
世界大恐慌の不況のあおりから、三菱合資本社の事業会社の半数が赤字や無配となった。その頃、小彌太は母・早苗、姉・繁子、弟・俊彌の相次ぐ死と自身の体調不良でダウンし2年間の休養を余儀なくされた。社長不在中は古参幹部が会社を支え、後に本社の分系会社に対する統制は緩められていくことになる。 |
昭和6年
/1931(52歳) |
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従三位に叙せらる |
昭和7年
/1932(53歳) |
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岩崎彦彌太三菱合資会社副社長に就任
小彌太が病癒えて社務に復帰した頃、日本社会は大恐慌に激しくゆり動かされていた。こんな中、のちに近代日本企業の社是の代表作といわれる三綱領は、商事の社是として誕生した。今日風に言い直せば、社会貢献、フェアプレー、グローバリズム。三菱系の各事業会社で、今でも共通の精神的資産として受け継がれている。 造船所の多角化により、三菱電機や三菱航空機が新設された。しかし、航空機以外はいずれも不振。そこで小彌太は経営の合理化のため、造船と航空機を合併することを決定。社内外からの反対を押し切り三菱重工業を創設。小彌太の長期的な戦略判断の勝利だった。「重工業」という名称も小彌太の発案だった。 大正末期から昭和初期にかけて不況の嵐が吹きまくり、三菱各社とも業績低下に苦しんだが、その中で新規事業分野への進出が続けられた。乗用車「三菱A型」が製造されたり、潜望鏡開発のために日本光学工業(現・ニコン)が、石炭化学製品生産のために日本タール工業(現・三菱化学)がそれぞれ設立された。 |
昭和9年
/1934(55歳) |
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養女淑子、林忠雄に嫁す、熱海に別邸を営む |
昭和10年
/1935(56歳) |
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第一句集、巨陶集刊行
小彌太は俳号を巨陶という俳人だった。休養中に、主治医が精神のバランスのためにすすめたと思われる。師はホトトギスの巨匠、高浜虚子。「氏の体躯の偉大であった如く、氏の気宇も亦雄大であった。句を成す上に於て規模が大きくこせこせしない所があった」と虚子は後に小彌太の句について回顧している。 |
昭和11年
/1936(57歳) |
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三菱合資会社を改組株式会社三菱社とし、取締役社長に就任
軍部の本格的な政治介入が始まり、戦時経済一色になった日本は第二次大戦に向かっていった。小彌太は創業以来岩崎家の出資によって支えられてきた三菱合資会社を株式会社三菱社に改組。本社は事業会社を統括する持ち株会社になった。そしてその3年後に初めて株式を公開した。 |
昭和12年
/1937(58歳) |
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財団法人三菱養和会設立、財団法人静嘉堂設立 |
昭和15年
/1940(61歳) |
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太平洋戦争始まる
小彌太は敗戦直後に GHQの財閥解散要求を拒否した。しかし彼は偏狭な反欧米主義者だったわけではない。開戦二日目に招集した三菱協議会で「英米の旧友を忘れるな」と語り、「平和が回復したら、また彼等と手を携えて、再び世界の平和と人類の福祉のために扶けあおう」と呼びかけた。 戦時中、小彌太は一貫して産業報国に徹し、政治不関与を貫いた。「日本がこんな大戦争をするようになったことはまことに不本意であるが、事今日に至った以上は事業人として国家目的への協力と国民生活の安寧とに力を盡くさねばならぬ」と語った。一方で米国提携企業の三菱内部における投資を適法に保護した。 |
昭和16年
/1941(62歳) |
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正三位に叙せらる |
昭和17年
/1942(63歳) |
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株式会社三菱社を株式会社三菱本社と改称、林忠雄、淑子夫妻を養子とす |
昭和18年
/1943(64歳) |
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第二句集、早梅刊行
日本航空機生産の中心であった三菱重工の名古屋の製作所が次々と米軍に爆撃され多数の死者が出た。都市爆撃のなか、小彌太は東海・関西方面の工場視察と激励に向かった。空襲下に現れた社長の激励に社員は感激した。その間、東京麻布の小彌太邸は全焼。戦況はもはや絶望的になり日本は無条件降伏となった。 |
昭和19年
/1944(65歳) |
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終戦、10月発病入院、一切の公職を辞す、12月2日没
小彌太は昭和天皇の終戦放送を病床で聞いた。GHQは日本の四大財閥の自発的解散を日本政府に指令。しかし小彌太は大蔵大臣の説得にも譲らなかった。ところが交渉中に体調を崩し入院。本社幹部がやむなく要請を受け入れた。社長名で本社解散が発表され、三菱本社の株主総会で小彌太の社長退任が決議された。 三菱本社の定時株主総会の前日に、小彌太は最後の社長告示として「産業人の職域を通じて行なわれる奉公の大義」について伝達した。それが公表されたのは小彌太の死後7年後のこととなった。12月、小彌太永眠。遺骨は、東京の世田谷区岡本にある静嘉堂文庫に隣接した岩崎家墓地・玉川廟に葬られた。 小彌太は亡くなる直前の社長辞任の告辞で「永遠の恒策と当面の実策」を一致させるよう努力してきたと言っている。ギャンブル的投機商法に走るのではなく、長期的経営戦略の上に短期的事業戦術を展開すること。それはまさに三綱領に掲げた理念であり、その経営思想は三菱グループ各社にとって貴重な精神的資産である。 |
昭和20年
/1945(66歳) |
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(年齢は西暦の誕生日における満年齢)

