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三菱人物伝

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志高く、思いは遠く・・・岩崎小彌太物語・・・ vol.04 ケンブリッジ留学時代 その2志高く、思いは遠く岩崎小彌太物語vol.04 ケンブリッジ留学時代 その2

ケンブリッジの町は、ロンドンから電車で1時間ほどのところにある。約100年前の小彌太の頃でも今の様子とあまり変わらず、なだらかな丘陵が続く静かな学園都市であった。

小彌太が入学したペンブローク・カレッジは14世紀以来の歴史を有していた。1902年の新入生は72人で、日本人は小彌太ひとり。学生はそれぞれ数学、自然科学、歴史学など専門科目に分かれていった。

実は夏目漱石もここに入りたいと思い、同じ頃ケンブリッジを訪ね、小彌太の親友の一人に面会した。

「『ケンブリッヂ』へつくと驚いたのは書生が運動シャツと運動靴で町の内を『ゾロゾロ』歩いて居る。(中略)

夫から段々大学の様子を聴て見ると先づ四百磅(ポンド)乃至五百磅を費やす有様である。此位使はないと交際抔(など)は出来ないそうだ。(中略)衣服其他之に相応して高い。月謝も高い。留学生の費用では少々無理である」(夏目漱石の手紙、明治34年)

漱石は年額1800円(180ポンド)の官費留学生だった。

「(前略)彼等は午前に一、二時間の講義に出席し、昼食後は戸外の運動に二、三時を消し、茶の刻限には相互を訪問し、夕食にはコレヂに行きて大衆と会食す(後略)」(夏目漱石『文学論』序)

漱石は「紳商子弟の呑気なる留学」に比して自分の留学費用ではとてもやれない、気風もなじめないとケンブリッジはあきらめ、ロンドンの下宿で買い込んだ洋書と格闘し、ついにノイローゼ気味になってしまう。

エレガントな学生生活

漱石が観察したように、ケンブリッジの学生生活はすべてが紳士風だった。講義を聴き、指定された本を読み、午後はボートを漕いだり、球技や乗馬をし、ティー・タイムを楽しんだ。休日にはピアノを弾いたり絵を描いたりする、まことにエレガントなものだった。とはいっても指導教授の個人指導は厳しかった。小彌太を担当したのは欧州近代史専門の大学者で、毎週1時間ずつ先生の前でレポートを読み上げることを課されたが、小彌太はがんばってついていき、その結果、英語力もメキメキ上達した。

後年、社長時代の彼に会ったアメリカ人が、彼の英語を「インペカブル(impeccable)」完璧だと評したが、それくらい立派な英語を話したようだ。

彼が勉強したのは欧州史、政治学、経済学などで、入学 3年目の成績は「極めて優秀」の次の「優秀」(セカンド・クラス)だったが、次の年は「良」(サード・クラス)に落ちた。ひとつには、社交に忙しかったからだ。学生は正装して馬車に乗ってディナーに招待し合った。この紳士の社交マナーのため彼の交際費は年間数千ボンドに跳ね上がった。なんと漱石の1年分の留学費をはるかに超える。父の彌之助は小彌太の金遣いがあまりにも激しいので、悪い道楽でも始めたかと疑った。小彌太も信用してもらえないのなら勉強はやめて帰るとまで言い出した。友人は「今帰ると、卒業する力がなかったと、一生頭が上がらなくなる」と忠告。結局、彌之助も小彌太の社交費用を認めた。送金電報が着くと、彼はそれを握って友人の下宿に飛び込んだ。

1905年、小彌太は無事優秀な成績で卒業し、5年ぶりに帰国の途についた。その時、彼は政治家になって日本を改革しようと思っていた。(つづく)

文・宮川 隆泰

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」1998年7月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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