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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.03 石川七財青あるいは朱、白あるいは玄。vol.03 石川七財

石川七財と西南戦争

石川七財と西南戦争

幕末維新の社会変革の中で、武士の底辺から身を起こした岩崎彌太郎が、土佐藩の事業を日本最大の海運会社、三菱にまで発展させた陰には、彼を支えた強力な友人知人がいる。代表格は石川七財(いしかわしちざい)と川田小一郎。このふたり抜きには草創期の三菱を語ることは出来ない。

今回は石川七財について。石川は彌太郎よりも6歳年上である。父唯七(ただしち)は御両口(ごりょうぐち)といって生涯殿様の馬の轡(くつわ)をとる役で終ったが、息子の七財は才覚を認められ漸次(ぜんじ)登用されていった。

石川は粘着質の性格だった。傾倒していた藩の参政吉田東洋が刺客に倒れると、憑かれたように犯人探しにあたった。江戸在勤中には、藩邸の門限を破った者をあまりにしつこく糾弾したため激昂をかって切りつけられている。トレードマークの頬の傷はそのときのものだ。

元号は慶応から明治に変わり、彌太郎は藩営事業である開成館大阪商会の責任者として海運に貿易に縦横無尽の活躍をしていた。が、高知にはそれを快く思わない勢力があった。横目付の石川もその一人で、ひそかに彌太郎の行状を監査すべく大阪に派遣された。

西長堀の船着場に降り立った石川、早速彌太郎の周辺を探る。彌太郎は金銭出納帳など手のうちすべてを石川に見せ、日本の置かれた立場を語り、海運・貿易の重要性を説いた。石川は彌太郎の話にいつしか共鳴してしまいミイラ取りがミイラに。大阪に留まりやがて彌太郎の右腕になる。

海運の現場を仕切る

明治3年(1870)、九十九商会が発足し、土佐藩の海運や貿易の事業を継承した。石川は経営の中核に。彌太郎は監督する立場。

あるとき堂島の米相場が高騰した。石川は積極介入を主張。彌太郎は取り合わない。粘着質の石川、千載一遇のチャンスと食い下がり、しつこさに彌太郎が折れると、猛然と買いに出た。間もなく相場は大暴落。青くなった石川に彌太郎は、「これでおぬしも商売を覚えたかな…」。石川、頭が上がらない。

4年の廃藩置県の後、九十九商会は三人の幹部(石川、川田、中川)の名から『三川』商会と改称した。後、彌太郎が社主になり、6年には岩崎家の紋である三つの菱に因(ちな)んで『三菱』を名乗った。翌年、本社を東京に移転、全国区に進出した。

7年の台湾出兵で三菱は、政府の要請に応えて軍事輸送を担い、飛躍的発展の扉を開いた。石川は配船の現場を仕切った。その後も主として大阪にあって内外の海運会社との競争を指揮した。特に草創期三菱の最大の事業だった西南戦争での軍事輸送(10年)では、風雲急を告げる九州に自ら赴いて想を練り、開戦後の兵員・武器・弾薬の円滑な輸送を可能とした。まさに「フォロー・ミー」の精神で陣頭指揮する石川だった。

三菱の海運事業を統括し、草創期三菱の隆盛を演出・主演した石川七財は、明治15年志なかばで急逝する。54歳だった。墓地は谷中にある。

彌太郎は生前こう言っていた。「草らい(注1)を開墾するの力はわれ石川に許し、播種殖穀(はしゅしょっこく)(注2)の功はわれ川田に託す」。彌太郎を支えた石川と川田。後の三菱の経営幹部たちにも見られる「組み合わせの妙」というものであろう。

(注1)草むら。荒地。

(注2)種を播き穀物を育てること。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年7月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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