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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.04 川田小一郎 (上)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.04 川田小一郎 (上)

三菱時代の川田と茅場町の社屋。

三菱時代の川田と茅場町の社屋。

岩崎彌太郎より2歳年下の川田小一郎、高知の西の小さな村に生まれた。親は藩士とはいえ貧困そのものの生活。が、世は時代の変革期、若者には無限のチャンスがあった。

川田は抜群の理財の才が認められて、藩の会計方に登用された。松山藩の旧幕府資産を接収するにあたっては乾(いぬい)(板垣)退助の旗下に入った。別子銅山の接収には現場責任者として乗り込んだが、総支配人広瀬宰平(ひろせさいへい)の捨て身の嘆願に耳を傾けた川田は「操業現場の混乱は国にとって得策ならず。住友が幕府から得た稼行権をこのまま認めるべき」と判断、明治政府にその旨進言した。『住友別子鉱山史』に「広瀬支配人のよき協力者となる御差繰方(おさしくりかた)の川田小一郎…」との表現があるが、住友では今でも川田に感謝してやまない。

話変わって明治3年(1870)大阪。九十九商会が土佐藩直営の高知/神戸航路を引き継ぐ。翌年川田も幹部として加わった。7月、廃藩置県が断行され、九十九商会は純民間会社に組織替え。藩邸の責任者だった岩崎彌太郎が天下って社主になった。

彌太郎はまず、配下に入ることを潔しとせぬ者の退社を促した。やる気ある者のみでやるのだ。強いリーダーシップの下での新生九十九商会。勇将の下に弱卒なし。

陸での展開を強力に推進

6年、社名を「三菱商会」とする。7年、新興三菱は満を持して本社を東京に移転、富国強兵・殖産興業の国策に沿って海運事業にヒト・モノ・カネを注ぎ込む。立ちはだかるは内外のライバル。

圧巻は10年の西南戦争。三菱は総力をあげて政府軍の輸送にあたる。「国あっての三菱」の本領発揮。社長独裁、即断即決、有言実行の三菱。管事(注)として指揮を執るのは石川七財と川田小一郎。三菱は政府の期待に完璧に応えた。

川田が若き日に別子で得た知識と経験は、その後の三菱の吉岡銅山や高島炭坑の取得に活かされた。勉強熱心な川田。高島炭坑では取得後あらためて外国人技師に石炭の埋蔵状況を調査させ、自ら開発計画に関与した。

15年、盟友石川七財が急逝する。長州閥の政府と三井の連合軍である共同運輸との、会社の存亡をかけたビジネス戦争は2年以上に及んだ。川田は昼に夜に、まさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍だった。

18年2月、末期癌の彌太郎が無念の臨終に近づいたとき、川田は彌之助とともに枕辺に呼ばれた。「…川田よ、もう一度盛り返したかった…あとをたのむ…」。

彌太郎の歿後、川田らの根回しにより状況は急展開、ほどなく競合2社は合併することになり『日本郵船』が誕生した。三菱は海運事業を手放し「海から陸へ」転戦する。看板も『三菱社』に改めた。社長の彌之助を輔(たす)ける管事の川田は、炭坑、金属鉱山、造船といった近代国家の基幹産業への集中的な投資を推進する。結果、三菱は、明治日本と軌を一にして発展、一大産業資本に成長していった。

川田は岩崎家にとってパートナーともいうべき特別な存在だったが、24年(1891)に久彌が米国留学から戻り彌之助の下で副社長に就くのを見届けると、あっさり三菱の管事を退いた。若き日の別子でもそうだったが、大局をつかむとともに、退くタイミングを知っている川田だった。

(注1)社長に次ぐ立場。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年8月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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