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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.05 川田小一郎 (下)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.05 川田小一郎 (下)

熟年の川田の肖像と日銀の建物

熟年の川田の肖像と日銀の建物

明治14年(1881)大蔵卿になった松方正義(まつかたまさよし)は、維新以来のインフレ克服のために緊縮財政と増税を実施した。15年には日本銀行を設立、紙幣発行権を集中し銀兌換(ぎんだかん)制度の確立をめざした。

それから7年、その松方が、黒田清隆内閣での大蔵大臣のとき、こう考えた。「日銀は近代日本の根幹。大局を見ることの出来る強い総裁を据える要がある。薩長の寄り合い所帯である元老や閣僚に対して毅然として意志を通すことの出来る人物。となると、岩崎彌太郎とともに三菱の今日を築いた川田小一郎しかいない」。

土佐藩出身の川田は、明治3年(1870)の九十九商会の発足以来、石川七財とともに、飛車と角のように彌太郎体制を支えてきた。特に海運を仕切っていた石川七財が15年に他界してからは、彌太郎・彌之助両社長の公私にわたる補佐役・経営幹部として重きをなした。三菱と共同が合併して日本郵船が発足する際には、井上馨や伊藤博文、松方正義ら同床異夢(どうしょういむ)の政府高官たちの根回しをやってのけた。

川田が松方の強い推薦で日銀の第3代総裁に就任したのは明治22年だった。川田は歴代の総裁の中で最もスケールの大きい総裁だったと言われる。経済も分かる。計数にも強い。しかも確かな国家観を持っている。

行員たちは川田の博識と鋭敏な感性に脱帽した。ほとんど日銀に出勤せず、行員を自宅に呼びつけて報告させ指示した。松方の後任の渡辺蔵相も川田邸まで出向かざるを得なかった。

日銀の法王

「日銀の法王」と言われた川田は、明治23年の恐慌を乗り切り、日銀の中央銀行としての機能を確立した。日清戦争の資金調達もやった。かたわら機構改革や支店網の拡充、人材の登用など、日銀内部の問題も木目細かくさばいた。

ところで、現在の日銀の本館は川田総裁の時に建設されたものだ。「…今日では広壮華美だと見られても、十年後には普通堅牢の建物になる」と、川田は巨額の建築費を惜しまなかった。設計はジョサイア・コンドルの弟子で後に東京駅も設計した辰野金吾。

本館建設の日銀の担当者は後に日銀総裁・蔵相・首相にまでなった高橋是清だった。ペ ルーの銀山開発に失敗して浪人同然の生活をしていたところを川田に目を着けられ入行した。これだけでも川田の功績は大きい。

大した学歴のなかった川田は偏見がなかった。広く人材を登用し、有能な者は海外に留学させたり高等商業(現一橋大学)に国内留学させるなど、人材の育成に意を払った。

23年帝国議会開設と同時に貴族院勅撰(ちょくせん)議員となり男爵を授けられた。翌24年に彌太郎の長男久彌が米国留学から戻ると三菱の管事の肩書きを返上。ワンマン総裁7年目の明治29年、60歳で急逝した。

最後に川田の長男龍吉について。龍吉はスコットランドで船舶工学を学び、日本郵船に勤務、横浜船渠(せんきょ)(後の三菱重工業横浜造船所)の社長になった。最後は経営不振の函館船渠に招かれて辣腕(らつわん)を振るった。函館近郊に農場を建設、スコットランドのじゃがいもの味が忘れがたく北米原産の種いもを輸入して植えた。北海道の地に馴染んだそのいもは、後日、川田男爵にちなんで『男爵薯(だんしゃくいも)』と呼ばれるようになった。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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