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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.06 ウォルシュ兄弟青あるいは朱、白あるいは玄。vol.06 ウォルシュ兄弟

横浜の商館とウォルシュ兄弟

横浜の商館とウォルシュ兄弟

三菱史料館にある岩崎彌太郎の最も古いビジネス・レターは、土佐開成館長崎商会時代のものだ。慶応4年(1868)ウォルシュ商会との昆布の取引について大村屋正蔵に確認している。ジョン・ウォルシュ、米国の典型的な冒険商人だ。

安政5年(1858)、インド・中国を舞台に活躍していたジョンが長崎にやってきて商館を開いた。機械や武器や船舶をもたらし、生糸や茶や樟脳(しょうのう)を買い付ける。エネルギッシュなジョンは米国の権益代表的な存在になり、米国の初代長崎領事に任命された。兄のトマスは遅れて来日、長崎に見切りをつけ、横浜や神戸に商館を開いた。文久2年(1862)にはウォルシュ・ホール商会を設立、グラバーを先兵とするイギリスのジャージン・マセソンと競う大手貿易商社となった。商館は横浜・神戸ともにアメリカ人居留地一号館にあったので亜米一(あめいち)商会とも呼ばれた。

明治4年のある日、ジョンは神戸の商館に長崎時代以来の友人である岩崎彌太郎の訪問を受けた。 「じつは……弟の彌之助を米国に留学させたいのだが……」。

彌太郎はそのころ土佐藩の大阪藩邸の責任者だった。九十九商会を指揮・監督する立場でもあった。西長堀の藩邸を根城(ねじろ)に勉強に励む若者たちには、これからは世界が相手だと英語を学ばせていた。彌之助もその一人だった。

ジョンのお蔭で彌之助の2年弱のニューヨーク留学が実現した。ウォルシュ家では両親や弟妹が、大西洋の東ではなく太平洋の西からやって来た留学生を、英語の勉強と社会見学を兼ねて引き回し、彌之助の視野を一気にグローバルなものにした。

彌之助は新世界での体験を実況放送的に彌太郎に報告した。彌太郎も必ず返事を書いた。たとえば「只々貴様の学業成就の上、帰国致し候を指折り相待ち居り候……只貴様一身の養生息災に日を送り候ことを祈り候」と弟を思いやった上で、「このたびは御地※ウオロス氏の妹へ、小さき花細工を相贈り申し候」とファミリーに気を遣っている。彌太郎が花細工を買う様は、なぜか土佐の高知の坊さんが簪(かんざし)を買う様を想起させる。

※ウオロス=ウォルシュ 当時はウオロスの表記が多かった

製紙事業に進出

ウォルシュ兄弟は、貿易にあきたらず、明治8年(1875)、木綿ボロのパルプ工場を神戸に建設した。製紙原料となるボロ布をパルプにした上で輸出するという発想は良かったが、採算には合わなかった。であれば、最終製品である紙を日本で作ろう。彌太郎から資金を借りて製紙プラントを導入した。しかし経営の苦しさは変わらず、累積赤字は容易に解消しなかった。21年には、借入金を資本金に振り替える形で岩崎家の資本参加を仰いだ。
明治も半ばを過ぎた30年、ジョンが急死した。日本に来てから40年経っていた。70歳を超した兄のトマスは大いに落胆し、帰国を決意した。久彌はかねてからの約束にしたがい、製紙会社におけるウォルシュ兄弟のすべての権利を買い取った。

ウォルシュ兄弟と岩崎家のお付き合いは、彌太郎、彌之助、久彌と岩崎三代にまたがるものだった。トマスは「……晩年を平穏に過せるのは日本でのあなた方の友情のゆえ」と、心のこもった手紙を久彌に残している。

岩崎家の経営となったこの製紙会社は、やがて最新の技術による工場を建設、今日の三菱製紙に到る道を歩み出したのだった。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年10月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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