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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.08 荘田平五郎 (下)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.08 荘田平五郎 (下)

荘田平五郎と明治31年竣工の常陸丸

荘田平五郎と明治31年竣工の常陸丸

明治8年(1875)に「三菱汽船会社規則」を策定した荘田(しょうだ)平五郎は、さらに2年後に経理規程ともいうべき「郵便汽船三菱会社簿記法」を纏(まと)めた。これにより三菱は、大福帳(だいふくちょう)経営を脱して、福沢諭吉が明治6年に「帳合之法(ちょうあいのほう)」で提唱した複式簿記を採用、順次近代的な経営システムを確立していく。

初期三菱の経営戦略を担った荘田は、東京海上保険会社、明治生命保険会社の設立に関わり、百十九国立銀行を傘下に入れ、東京倉庫会社を設立するなど、さまざまな分野への進出を図った。明治18年の日本郵船設立に際しては三菱側代表として創立委員になり理事に就任した。19年に三菱が海運以外の事業を目的として「三菱社」の名で再発足するときに本社支配人として復帰、のち管事となり新生三菱を指揮した。

明治22年、荘田は英国の造船業界などの実情視察のために外遊した。当時の出張は船旅である。短くても半年。1年に及ぶことも多かった。ロンドンに着きだいぶ経ったある朝、荘田はホテルの部屋で開いた新聞のコラムに、「日本政府、陸軍の近代的兵舎建設のために丸の内の練兵場を売りに出すも買い手つかず」とあるのを発見した。突然閃くものがあった。そうだ、日本にもロンドンのようなオフィス街を建設すべきだ。宮城(きゅうじょう)の前に開ける丸の内こそその場所だ。荘田は彌之助に「丸の内、買い取らるべし」との電報を打った。後日、彌之助が松方蔵相と合意した額は128万円。当時の東京市の年度予算の3倍だった。

長崎造船所の近代化

荘田の功績に長崎造船所の改革がある。長崎造船所は明治20年に払い下げられた。28年に日本郵船が欧州航路の開設を決定したが、社外取締役の荘田の主張で新造船6隻のうち1隻は長崎造船所に発注された。常陸丸(ひたちまる)6172トン。それまでの最大建造実績は須磨丸の1592トンだから技術的にも大変なジャンプである。

30年に造船奨励法が公布され、修繕船から脱皮し新造船を事業の中核にするのだという明確な意識を持った久彌社長は、本社の管事として全事業を指揮する立場にあった荘田をあえて長崎造船所長に任命した。荘田は勇躍長崎に赴き、積極的な設備拡充を図り、貨客船や軍艦などその後の大型船建造の道を開いて行った。

荘田の近代化はハード面だけではなかった。「傭使人扶助法(ようしにんふじょほう)」「職工救護法」など労務管理制度を確立、所内には工業予備校を設立し自前で職工の養成を図るようにした。また、造船における厳しい原価計算の概念を導入した。今では当たり前のことだが、当時の日本企業には製造原価など工業簿記の概念はなかった。

荘田は明治39年まで長崎造船所の所長を務め、また永らく管事として彌太郎、彌之助、久彌の三代を支え、明治43年に引退した。豪傑肌の人物が多い明治の三菱の経営者たちの中にあって、類を見ない英国風のジェントルマンで、生涯を通して「組織の三菱」といわれるような近代的なシステムづくりに貢献したと言える。

その後、荘田は明治生命保険会社の取締役会長になった時期もあったが、晩年は受刑者の社会復帰事業に協力したり聖書の勉強をしたりの静かな日々を送り、大正11年(1922)に74歳で他界した。妻は彌太郎の妹・佐幾(さき)の長女・藤岡田鶴(たづ)である。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2004年12月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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