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三菱人物伝

朗読を聞く

青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.09 豊川良平 (上)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.09 豊川良平 (上)

若き日の豊川良平と当時の東京

若き日の豊川良平と当時の東京

豊川良平(とよかわりょうへい)は嘉永5年(1852)、土佐藩の町医者の家に生まれた。従兄の岩崎彌太郎は17歳年上。豊川の父と彌太郎の母が兄妹だ。幼い時に両親が亡くなり、岩崎家に引き取られて彌太郎や彌之助と兄弟同様に育った。藩校の致道館(ちどうかん)では漢学を学んだ、というより腕白(わんぱく)のかぎりをつくした。大阪では彌太郎のいる土佐藩邸に居候(いそうろう)し「英語を勉強した」、ということになっているが、それで納まっていたとは考えにくい。彌太郎が三菱商会を率いて東京に進出すると、豊川も意気揚々と上京、慶應義塾に入った。

慶應義塾でも土佐弁丸出しで、天衣無縫(てんいむほう)ぶりを発揮した。当然成績はよろしくなかった。が、なぜか彌太郎の信頼が厚かった。卒業の年に彌太郎の長男の久彌が慶應の幼稚舎に入ると、三田の下宿に同居して生活を指導するよう頼まれている。

豊川はもともと小野春彌(おのはるや)と言ったが、ある時一念発起して豊川良平と改名した。豊は豊臣の豊、川は徳川の川。良は張良(ちょうりょう※1)、平は陳平(ちんぺい※2)から採った。そんなことが可能な時代だった。後年、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)が豊川の名前のいわれを聞いて、「まるで酒と水と酢と醤油を一緒にしたようなものではないか」とあきれた由だが、案外豊川の本質をついているかもしれない。

慶應義塾を出ると言論活動に身を投じ、犬養毅らと「東海経済新報」を創刊した。明治12年(1879)に三菱に入社、三菱商業学校や夜間学校である明治義塾の運営に携わり、時にはピンチヒッターであやしげな英語を教えたりしながら、組織や時間に縛られない生活をエンジョイした。

※1・※2いずれも漢の高祖の功臣

人を見る目の確かさ

しかしこのフリーな生活の中で、荘田平五郎(しょうだへいごろう)(のち三菱の最高幹部)、加藤高明(かとうたかあき)(政界に転じのち首相)、山本達雄(やまもとたつお)(日銀へ移りのち総裁)、吉川泰二郎(よしかわたいじろう)(のち日本郵船に転じ社長)といった人材に声をかけ、三菱にリクルートしているのだからすごい。自由な、さまざまな人との関わりの中で、若い才能を見極める眼力を養い貯えていたのだ。

永らく続いた景気が翳(かげ)りを見せ、明治10年代後半になると海運も不況に陥った。荷為替貸付(にかわせかしつけ)を行っていた三菱為換店(かわせてん)は業務縮小を余儀なくされついに18年廃業となった。一方、臼杵(うすき)藩士たちが設立し経営が行き詰まった第百十九(だいひゃくじゅうく)国立銀行を、同じ武士の窮状を見過ごし得ずと彌之助が買収した。頭取には旧三菱為換店の元締(もとじめ)だった肥田昭作(ひだしょうさく)を充てた。不況下でダンピング合戦に突入していた三菱と共同運輸は、政府の斡旋で合併し「日本郵船」となった。

海運事業を切り離した三菱は明治19年(1886)に「三菱社」を設立、豊川良平は本社事務に任用された。自由だった豊川の生活は一変、やがて肥田の後を襲って第百十九銀行の頭取になる。銀行の実務に疎い豊川は、日常業務は100%信頼する生え抜きの三村君平(くんぺい)に任せた。

28年になって、新たな銀行条例を踏まえて三菱合資会社に銀行部が創設され、豊川が部長に就任、第百十九銀行を吸収合併した。銀行部は、富国強兵・殖産興業の国策にそって展開する三菱合資会社の事業と、裏と表の関係にあった。世間の信用は高まり、預金は大幅に伸び、産業銀行的役割を担った。それは、豊川の広い視野と三村の堅実さがうまく機能した結果だとも言われる。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年1月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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