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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.10 豊川良平 (下)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.10 豊川良平 (下)

豊川良平 ・順彌親子と若き水谷八重子が乗るオートモ号

豊川良平 ・順彌親子と
若き水谷八重子が乗るオートモ号

岩崎彌太郎の従弟である豊川良平(とよかわりょうへい)は土佐っぽそのもの。豪放磊落(ごうほうらいらく)。三菱の幹部になってからも土佐弁丸出しで、慣れない人にはなかなか聞き取れなかった。しかも話は要領を得ない。が、いつのまにかややこしい話をまとめてしまう。明るい酒。気配りの酒。義侠心(ぎきょうしん)に富み包容力がある。そんな豊川を、「雄弁をふるうことは出来なくとも座談に長じた人」と荘田平五郎(しょうだへいごろう)は評している。

豊川が岩崎彌之助に説得されて言論人としての自由な生活を切り上げたのは明治19年(1886)、34歳のとき。本社事務になり、三菱が買い取った第百十九国立銀行に持ち場を得て、やがて頭取になった。三代目社長久彌の時代になって、28年に三菱合資会社は銀行部を創設した。部長は豊川。第百十九銀行を吸収合併した。

金融業界では新参者だった豊川だが、その人柄のゆえに、いつしか業界のリーダー的存在になっていった。銀行倶楽部委員長、手形交換所委員長などの公職も引き受けた。

豊川は、慶應の幼稚舎に通う13歳年下の久彌の生活指導をして以来、久彌の後見役を任じていた。彼と保科寧子(ほしなしづこ)との縁談にも豊川が終始付き添い、「もう後戻り出来ませんぞ」と久彌に念を押しながら、保科家や寧子の母の実家である伊達(だて)家に赴いたという。

三菱に入ろうと思うな、自力で道を拓け

豊川の活動は金融だけではなかった。日本郵船、猪苗代水力など多くの会社 ・事業に関与し、「二×二が四では現状は打開できない。二×二を五にする工夫をしろ」というのが口癖だった。

人との付き合いを必ずしも得意としない久彌社長に代わり、三菱の代表として縦横無尽に財界活動を行った。「三菱の大蔵大臣兼外務大臣」とも言われながら築いた人脈は多彩で、大隈重信や渋沢栄一といった大物の信頼も厚かった。43年には荘田の後を継いで管事(三菱の最高幹部)になった。

豊川は大正2年(1913)に三菱をやめた。東京市議になって政治家志向だった若いころの夢を実現し、やがて貴族院議員になった。三菱合資会社の銀行部は大正8年に三菱銀行として独立し新たな段階に入ったが、豊川はそれを横目で見ながら、翌9年68歳で病没した。

豊川は、日ごろ自分の子どもたちに「お前たち、三菱に入ろうとは思うなよ。三菱では岩崎を超えられぬ。自力で道を拓け」と言っていた。とはいえ、長男の順彌(じゅんや)が東京高等工業学校(現東京工業大学)に入ると各地の三菱の工場を見学させるなど、親らしい配慮はしている。

その順彌は卒業を待たずに巣鴨に機械工場「白楊社(はくようしゃ)」を興し、父の死の床で同意を取りつけると、遺産すべてを自動車製作に注ぎ込んだ。純国産技術で完成させたオートモ号は、東京〜大阪間の40時間ノンストップ走行に成功した。日本最初の「量産自動車」となり、生産台数は当時としては破格の300台を記録した。大正14年(1925)には上海向けに輸出され、日本最初の「輸出自動車」にもなった。

しかし事業としては成功しなかった。豊川の遺産を遣い果したとき、「白楊社」は倒産した。が、先祖の姓を冠したオートモ号は歴史にその名を残した。空冷直列4気筒、943CC。現物は残っていないが、最近図面をもとにトヨタ博物館と国立科学博物館が共同で復元し、走らせることに成功した。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年2月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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