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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.11 近藤廉平青あるいは朱、白あるいは玄。vol.11 近藤廉平

近藤廉平と欧州航路の香取丸(かとりまる)

近藤廉平と欧州航路の香取丸(かとりまる)

日本郵船に26年あまり社長を務めた男がいる。三代目社長、近藤廉平(こんどうれんぺい)である。明治28年(1895)から大正10年(1921)まで。日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦などをはさんで、近代日本がダイナミックに発展した時期である。日本郵船は欧州航路・北米航路・豪州航路と悲願の三大航路を開設し、世界の海に白地に赤い線二本の「二引(にびき)の旗」をなびかせた。

近藤は嘉永元年(1848)阿波の医者の家に生まれた。はなたれ小僧のころから血の気が多く、医者になって病人の面倒をみる気などさらさらなかった。がむしゃらに剣を学び、がむしゃらに儒学を学んだ。東京では大学南校に学んだ。明治4年(1871)に同郷の大蔵省官吏星合常恕(ほしあいつねのり)の書生兼護衛として高知に赴いた。このことが縁で近藤は後日、星合から岩崎彌太郎に預けられることになった。

彌太郎の指揮下に入った近藤は、大阪の岩崎邸内の英語塾で勉強するかたわら学生の監督をし、やがて三菱の実務に携わるようになった。近藤の卓抜した能力に着目した彌太郎は「好漢惜しむらくは実務を知らず」とあえて厳しく接し、ビジネスマンの心得を一から学ばせた。近藤は25歳で吉岡鉱山の事務長代理として赴任、鉱区に関する係争や採掘現場の諸問題を解決し、かつ思い切った合理化で、不採算だった鉱山を優良事業に変身させた。

明治11年東京に呼び戻され、西南戦争後の反動不況の中、船舶運航や荷物受渡あるいは支店運営などあらゆる分野の無駄を洗い出して海運事業の合理化を図った。まさに「ミスター合理化」。明治15年には長崎の高島炭坑に、山脇正勝(やまわきまさかつ)事務長の補佐として赴任、後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の蓬莱社(ほうらいしゃ)が経営していた頃からの諸問題を信賞必罰(しんしょうひつばつ)主義でばっさばっさと片づけた。

「社長」と言えば近藤のこと

三菱の海運独走を阻もうと明治16年に共同運輸が発足し壮絶なビジネス戦争が勃発すると、三菱は横浜支配人に近藤を据え、神戸支配人の吉川泰次郎(よしかわたいじろう)とともに鉄壁の砦を築いた。両社2年以上譲らず体力を消耗し尽くしてわが国の海運事業は壊滅寸前。

明治18年に政府の仲介で共同・三菱は合併した。新会社日本郵船の初代社長には共同の森岡昌純(もりおかまさずみ)が就いたが、二代目は三菱の吉川。三代目には近藤が46歳で就任したのだった。

以来四半世紀、近藤は不動の日本郵船社長だった。花柳界ではいつしか「社長」と言えば近藤のことをいうようになった。所有船舶は6000トン級だけでも18隻を数え、日本郵船の船は常時世界の海を行き来していた。ただし、それらは一朝ことあればお国のために徴用される運命にあった。最初の国産大型船常陸丸(ひたちまる)は、日露戦争において乗組員103人兵員963人を乗せて日本海で撃沈された。琵琶の名曲「ああ、常陸丸」で国民の涙を誘い、戦意高揚のための映画や軍歌にもなった。

近藤は根っからの国際人だった。即興でジョークを交えた英語の挨拶ができた。ヴェルサイユの講和会議後のパーティーでは、カタコトのフランス語を試み一座の人気者になる。しかし、大正10年、連日の宴席で風邪をこじらせあえなくも他界する。72歳。趣味豊かで、謡曲、能、書画、骨董などに造詣が深かった。妻の従子(じゅうこ)は豊川良平(とよかわりょうへい)の妹、すなわち彌太郎の従妹である。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2006年3月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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