このページの本文へジャンプ

三菱グループのポータルサイトです。
文字サイズ
  • 小
  • 中
  • 大

三菱人物伝

朗読を聞く

青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.15 中村春二青あるいは朱、白あるいは玄。vol.15 中村春二

成蹊実務学校生徒との遠足(大正5年)

成蹊実務学校生徒との遠足(大正5年)

私学には創立者の精神を色濃く引き継いでいるところが多い。福沢諭吉の慶應義塾、大隈重信の早稲田、新島襄の同志社…。三菱にゆかりのある成蹊学園もまた創立者中村春二(はるじ)の教えを受け継いだ多くの卒業生を世の中に送り出している。

明治29年(1896)に東京高等師範(現筑波大学)附属中学校を卒業した3人の少年がいた。中村春二、著名な国文学者中村秋香(あきか)の長男。今村繁三(しげぞう)、今村銀行の御曹司。それに岩崎小彌太、三菱財閥の総帥岩崎彌之助の長男である。入学したときの校長は山川浩男爵で会津武士の末裔。途中で代わった嘉納治五郎校長は講道館の開祖。ともに武士道の精神を説いた。多感な少年たちは当然影響を受けた。

中村と岩崎は第一高等学校に進み、哲学にふけり、人間性を探求し、自由主義・個人主義の理想に燃えた。その後中村は東京帝国大学の国文科に進んだ。岩崎は同じく英法科に進んだが中退してケンブリッジ大学に留学した。そこには、中学を卒業するとすぐ英国に留学した今村がいた。

中村は帝大を卒業すると嘉納校長の招きで母校の教壇に立つ。単なる授業だけでなく教え子の生活全般に体当たりで接する中村は、さらに一歩進めて学生塾を持ちたいと考えるようになった。

英国から戻り家業の銀行を継いでいた今村が資金提供を申し出た。英国の個性を尊重する教育に心酔していた今村は、中村の追い求める理想に共感したのだった。明治39年、本郷区(現文京区)西片町の中村の自宅に学生塾成蹊園が発足した。

今日の成蹊学園へ発展

「成蹊」は、司馬遷(しばせん)の「桃李(とうり)もの言わざれども下おのずから蹊(みち)を成す」から来ている。徳のある人のところには自然に人が集まるという意味である。

41年、英国から帰国して三菱合資会社の副社長になっていた岩崎小彌太も中村支援に加わった。人格・学問・心身にバランスの取れた人間教育の実践。中村は駒込富士前町に宿舎を移し、今村と岩崎の更なる支援を得ると、池袋に成蹊実務学校を設立した。

岩崎の支援は資金だけではなく社会への橋渡しもあった。三菱は多くの成蹊卒業生を積極的に受け入れた。中村にあてた書状に「本年度卒業生採用の件、ほぼ決定の運びと相成り候ところ…その中の一、二名は三菱以外の会社にて採用する方が学校の将来の為に良からんと判断、郵便会社に一名、横浜正金銀行に一名採用の交渉致すことと致し候…」とある。

元成蹊実務学校校長児玉九十によると、中村は教職員に「平凡に徹底すること」を説いた。個性を育てるという高邁な理想の実現には日ごろが大切という意味である。大正に入って、中学校、小学校、実業専門学校、女学校が創立され、8年(1919)には財団法人成蹊学園が設立された。が、好事魔多し、吉祥寺に8万坪の土地を得て移転するという大正13年の始め、中村は病没してしまう。46歳の若さだった。

しかし、中村の理念はしっかり受け継がれた。緑多い武蔵野のキャンパスで、成蹊学園は自由主義、個人主義をモットーに、多くの豊かな個性を育み、多彩な人材を世に送り出してきた(※)。それは小学校から大学院までの総合学園になった今日も変わらない。

※秋元勇巳元三菱マテリアル会長や槙原稔元三菱商事会長、岸曉元東京三菱銀行会長なども少年時代を成蹊学園で送っている。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年7月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

三菱人物伝トップページへ戻る