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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.16 岩崎俊彌 (上)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.16 岩崎俊彌 (上)

英国から帰国して間もない頃の俊彌(左)と兄小彌太(中央)、弟輝彌

英国から帰国して間もない頃の
俊彌(左)と兄小彌太(中央)、弟輝彌

旭硝子を創業した岩崎俊彌は彌之助の次男。母の早苗は後藤象二郎の長女である。兄の小彌太とは2歳違い。明治14年(1881)に生まれた。長子相続の時代。どこの家でも長男と次男以下とでは待遇に雲泥の差があったが、岩崎家ではこと教育に関しては機会を均等に与えた。俊彌は小彌太の後を追って学習院に入り、のち東京高等師範学校付属小学校(※1)に転じ中学校に進んだ。

駿河台の彌之助邸には実業家、政治家、芸術家、その他もろもろ大勢の人が出入りしていたので、父はふたりのために学寮を設けた。人格・学業ともに秀でた書生の下で規則正しく生活し、週末以外帰宅は許されない。質素剛健、清貧を旨とする。岩崎本家の学寮が雛鳳館(すうほうかん)といったので、こちら分家は潜龍窟(せんりゅうくつ)と称した。

29年に父彌之助が日銀総裁になると、俊彌は小彌太とともに、留学帰りの若手行員の米国人妻について、英会話と欧米流のマナーを学んだ。そして第一高等学校に進んだ後、33年に中退してロンドン大学に留学、応用化学を専攻した。ケンブリッジ大学では小彌太が歴史や政治学を学んでいた。

ロンドンでは、大いに学び、語り、飲み、そして騒いだ。まさに青春の日々。ヴィクトリア女王からエドワード七世に引き継がれたころの英国は、世界最強、あこがれの国だった。35年には日英同盟が締結され、日本の英国礼賛ムードはピークに達した。

帰国すると俊彌は近衛騎兵連隊に入った。少年時代から馬に乗るのを得意としていたのだ。日露戦争が始まり、多大な犠牲の末に203高地を奪い、国民の士気は高まった。俊彌は訓練や演習を重ねていたが、旅順開城(りょじゅんかいじょう)、奉天陥落(ほうてんかんらく)、日本海海戦となり、幸か不幸か出兵を体験しないまま戦争は終わった。

板ガラスこそ生涯の事業

日露戦争の勝利により起業熱は高まり、さまざまな産業が勃興した。除隊した俊彌は、日本の近代化の中で大きな需要が期待される板ガラスの製造に取り組むことを決意した。多くの先人が試みながらいずれも志半ばで挫折した板ガラス製造は、技術の蓄積がまだまだ足りない分野で、輸入品に歯が立たなかったのだ。

39年、俊彌はガラス器具を製造している島田孫市(まごいち)と、大阪島田硝子製造合資会社を設立した。ガラス王国ベルギーの技術を導入して製造する。俊彌の板ガラス人生の第一歩だった。

彌太郎、彌之助の岩崎両家は、それぞれ長男は後継者として三菱に入るが、次男以下は独立した。小彌太は三菱合資会社の副社長として、従兄久彌の下で帝王学を学び始めようとしていた。

次男俊彌の起業を彌之助は大いに喜んだ。わざわざ大阪の工場を見に行ったりしている。しかし、現実は厳しい。俊彌がロンドン大学で勉強したというだけでは通用しない。製品の板ガラスは高くて売れない。質が悪くて買う人がいない。在庫が増える。島田とも意見が合わなくなる。事業の道筋は全く立たない...。

俊彌はあきらめなかった。「困難は覚悟の上のこと。生涯をかけてでも国産化は成功させる」と、父彌之助(※2)にあらためて決意を語る。俊彌は島田と袂を分かってベルギーの技術で再挑戦する案を練った。明治40年、尼崎に旭硝子株式会社を創立。出資額は俊彌と弟の輝彌で過半数を占めた。三菱合資会社の事業ではなく、岩崎家(分家)の事業という位置付けだったからである。板ガラス専門の大規模工場の建設が開始された。

※1 現・筑波大学

※2 明治41年3月、上顎骨癌腫にて死去

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年8月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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