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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.17 岩崎俊彌 (下)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.17 岩崎俊彌 (下)

岩崎俊彌と実生の蘭ファレノプシス種

岩崎俊彌と実生の蘭ファレノプシス種

前回はいわば旭硝子前史。板ガラス事業をライフワークと決意した岩崎俊彌は、新たに旭硝子株式会社を設立、尼崎に2万坪の土地を得て、ベルギーの手吹円筒法(※1)を採用した大規模な工場建設に取りかかった。明治42年(1909)完成。翌年、製品が市場に出た。が、質・価格ともに輸入品に勝てない。

俊彌はあくまでもエンジニア。技術改良に意を注ぐ。一方で新技術の情報にアンテナを張っていた。そこでピンときたのが米国の機械吹法。「これだ!」と自ら米国に赴き、技術導入にあたった。大正3年(1914)、北九州の戸畑に最新鋭の牧山工場が完成する。累積赤字なんかで萎縮しない、堂々の設備だった。今度こそ大丈夫。

折りから第一次世界大戦が勃発した。欧州からの板ガラスの輸入がストップした。国内市況は高騰し、板ガラス生産はまたたくまに累積赤字を吹き飛ばす優良事業になった。大消費地東京に近い鶴見では新しい工場の建設が始まった。

創業から7年余。旭硝子にとっては無配の苦しい道程だったが、ついに果実は実り、経営基盤が確立された。それは俊彌の不屈の精神と卓抜した先見性のたまもの以外の何物でもなかった。

さらに、大正5年、尼崎に耐火煉瓦工場を建設、6年には本社を東京に移転した。牧山にも第二工場を建設し、アンモニア ・ソーダ法によるソーダ灰工場も竣工、板ガラスの原材料の自給体制を確立した。

その後もダイナミックな技術革新は続き、旭硝子は破竹の勢いで成長していった。そして14年には南満州の大連に、満鉄と共同出資で昌光硝子(しょうこうがらす)株式会社を設立し、大陸進出を果たした。

家族を愛し蘭を好んで

俊彌自身は心臓に持病があり、突然息苦しくなるときがあったが、日ごろはそんなことは、おくびにも出さず、社長としての業務をこなし、工場を視察し、朝鮮や満州へ出かけることもあった。3人の娘(※2)に恵まれ、家族を大切にし、蘭の栽培に心をくだいた。

昭和5年(1930)の秋、いつものように長女の八重子に「父が弱いがゆえにお前たちは人一倍母に面倒をかけた。母を大事に大事にするんだよ」と言って、福井の曹洞宗発心寺(ほっしんじ)での座禅の会に出かけた。三日目に体調を崩したが、1週間の参禅をまっとうし、俊彌は清々しい気持ちで京都へ戻ってきた。その翌日、高台寺のそばの別荘で突然倒れ、帰らぬ人となってしまった。50年の生涯だった。

俊彌が創業し、俊彌が24年余り率いた旭硝子だったが、事業の継統に憂いはなかった。尼崎工場の建設段階から工務長として参画し、俊彌とずっと苦楽を共にしてきた山田三次郎が後を継いで、軌道に乗った旭硝子の事業をさらに発展させていった。

今日、毎年2月下旬になると、東京ドームが蘭で埋め尽くされる。「世界らん展」。その会場の片隅に俊彌のコレクション『1800年代の蘭の古図譜』が展示される。英国留学中に蘭に魅せられて買い集めた貴重本だ。帰国後、俊彌は蘭の交配や育種に熱中した。物の本に「 ・ ・・男爵岩崎俊彌氏邸の蘭栽培で殊に有名なのは ・ ・ ・ファレノプシスアサヒなどの新種だ。和名が学名になっている ・ ・・」とある。俊彌の歿後、北海道大学の植物園に約500種、2万7千株におよぶ蘭が寄付された。

※1 鉄管の吹棹(ふきざお)に灼熱したガラス素地を巻き付け直径30cmの円筒に仕上げる。

※2 次女淑子は昭和10年子どものいない伯父小彌太の養女になった

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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