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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.18 幣原喜重郎青あるいは朱、白あるいは玄。vol.18 幣原喜重郎

幣原喜重郎と人間天皇の行幸

幣原喜重郎と人間天皇の行幸

「朕ト汝等(なんじら)国民トノ間ノ紐帯(ちゅうたい)ハ終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ結バレタルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神(あまつみかみ)トシ且(かつ)日本民族ヲ以テ他ノ民族ニ優越スル民族ニシテ延(ひい)テ世界ヲ支配スベキトノ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ」。昭和21年(1946)1月1日の、天皇みずからの神格を否定するいわゆる『人間宣言』の詔書の一節である。

この詔書は日本を取り巻く厳しい環境の中で、天皇制維持のために外国の目を強く意識して幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)首相自らまず英語で起草し、それを日本語訳して天皇が目を通したといわれる。国民とともにあることを明言した人間天皇は、神奈川県をスタートに全国巡幸を開始、敗戦で呆然自失の国民の心の支えとなった。

幣原は明治5年(1872)大阪の門真の豪農の家に生まれた。東京帝大を卒業すると農商務省に勤務したが、翌年外務省に転じ、外交官として本省と在外公館のポストを往来する。その間、明治36年(1903)岩崎彌太郎の四女雅子と結婚、駐英大使館参事官、駐オランダ公使などを歴任、大正8年(1919)原敬内閣で駐米大使となり、10年から11年にかけてのワシントン会議を纏(まと)め上げた。妻の姉春路(はるじ)の夫で、外交官の先輩でもある加藤高明が 13年に組閣すると、請われて外相に就任した。辛亥革命では内政不干渉の立場を堅持し、国際協調と善隣友好を基調とするいわゆる幣原外交を展開、軍部からは軟弱外交と激しく非難された。

今日も生きている平和思想

終戦直後に発足した東久邇(ひがしくに)内閣は50日で瓦解し、知米派とされる幣原喜重郎が昭和20年(1945)10月に首相に就任した。幣原は在任8か月の間にGHQのいわゆる五大改革指令を実行した。五大改革指令とは、マッカーサーが口頭で指示した(1)婦人参政権の付与(2) 労働組合結成の奨励(3)学校教育の自由主義化(4)秘密警察の廃止(5)経済の民主化、などだった。 (1)の婦人参政権の付与は、20年前に義兄加藤高明が財産による制限を撤廃して男性による普通選挙を実現したが、その残り半分を実現したともいうべきものである。この際有権者の年齢も20歳に下げたので、有権者数は一気に5倍になった。経済の民主化の目玉は財閥解体と農地改革だった。人生は皮肉なものである。GHQの意向とはいえ、幣原が義父岩崎彌太郎の作り上げた三菱を解体する役目を担う。三菱本社の社長は動脈瘤で余命いくばくもない岩崎小彌太。妻雅子の従弟である。小彌太は「三菱は国家社会に対する不信行為はいまだかつてなした覚えはなく ・ ・ ・顧みて恥ずべき何物もない ・ ・・」と自発的解散に抵抗する。さらに皮肉なことは所管の大蔵大臣が渋沢敬三であること。渋沢栄一の孫だが、妻登喜子は彌太郎の孫(※)である。幣原も渋沢も家族・親戚として茅町の本邸や小岩井の農場、大磯の別邸などによく集った岩崎ファミリーだ。三菱を守りたい思いは皆おなじ。当事者たちの苦衷いかばかりだったか ・ ・ ・。しかしGHQの意向はいかんともし難かった。

幣原は後に衆議院の議長も務めたが、昭和26年(1951)に78歳で急逝した。没後、幣原平和財団が設立され、国際協調を基本とするシデハライズムを後世に伝えている。

※ 登喜子は彌太郎の次女磯路の次女、したがって幣原の妻雅子は叔母にあたる

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年10月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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