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三菱人物伝

朗読を聞く

青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.19 諸橋轍次 (上)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.19 諸橋轍次 (上)

旧下田村の生家と晩年の諸橋

旧下田村の生家と晩年の諸橋

越後山脈に源を発し、やがては信濃川に流れ込む五十嵐(いがらし)川は、断崖の景勝「八木ケ鼻」の下を激して流れて行く。そこは「漢学の里」旧下田(しただ)村(現在は三条市)。諸橋轍次(てつじ)博士の故郷である。

旧下田村は、越後から会津へ抜ける街道筋だった。木立の中に杉皮葺き屋根の小さな二階建てがある。諸橋は明治16年(1883)にその家に生まれ14歳まで育った。学者になってからは、夏休みごとに三男の晋六(※1しんろく)ら家族を伴って帰省し、松籟(しょうらい)の中で読書に耽った。現在は隣接地に「諸橋轍次記念館」が建設され、遺品や遺墨に人柄や偉業を偲ぶことができ、訪れる人も多い。

諸橋は東京高等師範を卒業すると、漢学の教授として母校に奉職した。その間中華民国になった大陸各地を旅行し、清朝以来の漢学者が途絶える可能性があることを察知すると、急ぎ留学することを決意した。大正8年(1919)から2年間中国に留学し、各地で碩学(せきがく)に学んだ。岩崎小彌太の援助を受けるに至ったのもこの時からである。中国では、原典による完全な解釈を施した完成度の高い辞典の必要性を嫌というほど痛感したが、後年自ら大漢和辞典の編纂(へんさん)に取り組むことになるとは思いもしなかった。

皇太子(今上天皇)へのご進講

帰国して間もなく、高等師範で漢文の指導にあたるかたわら、岩崎小彌太に嘱望され静嘉堂の文庫長になった。静嘉堂は岩崎家の私設文庫で当時は高輪(※2)の本邸にあった。文庫は清国の四大蔵書家のひとりである陸心源の蔵書を中心に、和漢の蔵書を幅広く収集していた。諸橋は、図書の調査、目録の作成、典籍の購入など文庫長としての任にあたった。

静嘉堂文庫は諸橋の研究の場であり、大正12年に関東大震災で書架が倒れ蔵書が散乱したときは、大いに困惑した。

翌13年、岩崎家の廟のある二子玉川の丘の上に、新しい文庫が建設されて移転した。そこには、多忙な三菱の総帥・岩崎小彌太社長が必ずと言っていいほど週末には足を運び、諸橋から中国の古典講義を受けた。後年、三菱の三綱領の撰を依頼されたのもその間のことだった。

昭和2年(1927)、大修館書店の要請に応じて、諸橋は漢和辞典の編纂に取りかかった。また、4年には、高等師範の敷地内に東京文理科大学(※3)が創設され、諸橋が漢文科の編成にあたった。

漢和辞典は高い完成度を追求して構想がどんどん膨らんだ。膨大な作業は戦時体制で中断されることもなく粛々と進められた。

終戦直後、宮内庁から諸橋に遣いが来た。皇太子(今上天皇)への漢学の進講を委嘱される。ご進講は殿下の学習院卒業まで続いた。35年の皇孫浩宮(ひろのみや)さま(現皇太子)誕生の際は「御名号(ごみょうごう)・御称号(ごしょうごう)」の勘申(※4かんじん)を依頼された。40年の礼宮(あやのみや)さま、44年の紀宮(のりのみや)さまについても同様であった。

諸橋は40年に文化勲章、51年に勲一等瑞宝章を受けた。そして、57年に99歳で歿した。座右の銘は、論語にある「行不由径」(行くに径《こみち》に由《よ》らず)。径は小道すなわち近道のことで、近道せずに大道を一歩一歩着実に歩むという意味である。

30年を超す膨大な作業を経て昭和35年に完成された大漢和辞典の編纂は、まさしく「行不由径」の日々であった。

※1 のちに三菱商事社長、静嘉堂文庫理事長。

※2 現在の開東閣

※3 のち東京教育大学、現筑波大学。

※4 先例や故事来歴を調べて上申すること

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年11月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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