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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.20 諸橋轍次 (下)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.20 諸橋轍次 (下)

大漢和辞典の原稿に手を入れる諸橋

大漢和辞典の原稿に手を入れる諸橋

今回は世紀の大事業、大漢和辞典の編纂について述べよう。

諸橋轍次博士は言う、「(※1)漢字・漢語の研究なくして東洋文化の研究はありえない...。中国に『康熙(こうき)字典』『佩文韻府(はいぶんいんぷ)』などの大辞典があるにはあるが、語彙が少なかったり解釈が不十分だったり...」。中国留学中、各地に碩学(※2 せきがく)を訪ねて学んだ諸橋は、内容の充実した大辞典の必要性を痛感していた。帰国して静嘉堂の文庫長になったが、昭和2年(1927)、大修館書店の鈴木一平社長に懇請され、漢和辞典の編纂事業に着手した。

初めは主として、諸橋が教鞭を執っていた大東文化学院(現大東文化大学)の学生たちが力となり、分担して膨大な典籍から漢字と熟語を集めカードに整理していった。遅れて、生涯の友であった近藤正治のほか、東京文理科大学出身の小林信明、渡辺末吾、鎌田正、米山寅太郎(※3)らが事業に参加した。最終的に集めた漢字は5万、典拠を明示し用例を掲げた語彙は50万に及んだ。

カード整理の次は辞典の原稿の執筆。それに諸橋が手を入れる。印刷所も手持ちの8千字程度の鉛活字を5万字以上6種類の大きさを揃える作業に着手。活字は文選工と呼ばれる熟練工がひとつひとつ拾って版に組む。試し刷り。ゲラに朱が入って版の組み直し。また試し刷り。そしてまた校正。際限のない作業である。

世紀の事業・大漢和辞典編纂成る

何回夏が来て、何回冬が来たことか。ついに1万5千ページ分の版ができあがる。この間、日本を取り巻く情勢は緊迫の度を増し、物資は不足、食糧の確保も困難を伴った。そんな中で、昭和18年、第1巻が出版された。紙は軍部統制品で、出版元である大修館の苦労も並大抵のことではなかった。

ところが、20年2月、東京大空襲。版とすべての資料が灰となった。関係者の落胆いかばかりだったか。しかも、酷使し続けた諸橋の右目は失明、左目もやっと明暗が分かる程度であった。

8月、終戦。国の再建が始まった。諸橋たちもよみがえる。幸いゲラ刷りが3部残っていた。焼けた鉛活字は戻らないが、写真植字を発明した石井茂吉が5万字をペンや筆で描く作業を引き受けた。諸橋たちは寝食を忘れて最後の仕上げに没頭した。

企画がスタートして32年余、大漢和辞典はついに全13巻が出揃う。昭和35年、まさに世界的偉業だった。

それは多くの人に支えられて達成できたものだったが、諸橋の心を支えたのは故郷下田村(※4)への愛かもしれない。後に文化勲章など数々の栄誉に輝いた諸橋だが、三男の晋六(※5)はこう回想する。「おやじは本当に故郷を愛していた。最も嬉しかったのは、名誉村民に選ばれたことだったんじゃないかな...村の小学校の校歌を作詞した時は心底嬉しそうだった...」。

諸橋は大漢和辞典完成直後から「オックスフォード辞典も...百年の歳月を要して後人が補修している...」と、後継者による修訂を願っていた。存命中に鎌田や米山がその委嘱を受けたが、原典にあたって確認する作業が膨大で、修訂版が刊行されたのは諸橋が昭和57年に99歳で没して後の、61年だった。平成2年には語彙索引として第14巻、12年に補巻として第15巻が出された。

大漢和辞典は不滅である。

※1 「大漢和辞典」の『序』などから引用した言葉

※2 大学者のこと

※3 鎌田は東京教育大学名誉教授。米山はのちに静嘉堂文庫長

※4 現三条市

※5 元三菱商事社長、静嘉堂文庫理事長

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2005年12月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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