このページの本文へジャンプ

三菱グループのポータルサイトです。
文字サイズ
  • 小
  • 中
  • 大

三菱人物伝

朗読を聞く

青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.22 澤田美喜 (上)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.22 澤田美喜 (上)

エリザベス・サンダース・ホーム定礎式の澤田美喜

エリザベス・サンダース・ホーム定礎式の
澤田美喜

澤田美喜は明治34年(1901)、三菱合資会社社長岩崎久彌の長女、創業者岩崎彌太郎の孫として茅町本邸(※1)で生まれた。男の子が3人続いての4番目の子。美喜の竹を割ったような性格を大いに気に入った祖母は、兄たちのお古を着せ、取っ組み合いを良しとし、折にふれ祖父彌太郎のスジを通す性分を語って聞かせた。美喜はお茶の水の東京女子高等師範学校(※2)の幼稚園に入り高等女学校に進んだが、中退して津田梅子らに英語を学んだ。

20歳で外交官澤田廉三(※3)と結婚、クリスチャンになる。外交官夫人として、アルゼンチン、北京、ロンドン、パリ、ニューヨークと移り住む中で、持ち前の英語力と物怖じしない性格とから現地の社交界に迎えられ、国際感覚を磨き、幅の広い人脈を築いていった。

ロンドンでは毎週教会に通ったが、ある日、誘われて郊外にある孤児院「ドクター・バーナードス・ホーム」を訪ねる。こざっぱりした宿舎。きれいな礼拝堂。緑に囲まれた広い敷地には、小学校から中学・高校まであり、職業訓練施設もある。ボランティアの人たちが生き生きとして働いている。そして何より子どもたちが明るい。美喜は感動し、それから毎週末、バーナード博士のもとで孤児たちのために汗を流して心に潤いを得たのだった。

パリではマリー・ローランサン(※4)に絵の指導を受けたり、琥珀色の歌姫といわれたジョセフィン・ベーカー(※5)と親友になるなど、華やかな社交界の生活を満喫した。昭和11年(1936)にニューヨークから帰国。翌年、盧溝橋事件が勃発した。日本は急速に戦争に傾斜していった。

この子らの母になる

第二次大戦後、日本に進駐した米兵と日本人女性との間に多くの混血児が生まれた。祝福されずにこの世に生を受けてしまった子ら。多くが父も知らず、母からも見捨てられていく。

ある日、満員列車で美喜の目の前に網棚から紙包みが落ちてきた。黒い肌の嬰児の遺体だった。美喜の頭に血がのぼり、心臓が激しく鳴った。イギリスの孤児院ドクター・バーナードス・ホームの記憶が突然よみがえった。美喜は天命を覚えて身震いした。

「日本にはいま大勢の祝福されない混血孤児がいる。そうだ、私はこの子らの母になる…」

夫の理解も得た美喜は憑かれたように行動を開始した。GHQに日参し「大磯の旧岩崎家別荘に混血孤児たちのホームを作らせて欲しい」と訴えた。混血孤児の問題は直視したがらない人が多かったが、教会関係者や一部の在日米国人、それに使命感に燃えた多くの人々に支えられ、美喜は諦めなかった。

執拗に陳情を繰り返す美喜の希望がかなうときが来た。ただし「物納された別荘を買い戻すならば」との条件付きだった。美喜は寄付を募り、私財を投入し、なお足りない分は借金に駆けまわった。GHQの指示ですでに資産を凍結された父久彌は、「世が世だったら、大磯の別荘くらい寄付してやれたのに…」と嘆いた。

昭和22年、美喜はついに別荘を買い戻し、ドクター・バーナードス・ホームのように学校も礼拝堂もあるエリザベス・サンダース・ホーム(※6)をスタートさせた。美喜、46歳だった。

※1 現在は「都立旧岩崎邸庭園」。台東区池之端

※2 現お茶の水女子大学

※3 戦後、外務次官、国連大使

※4 フランスの女流画家

※5 アフリカ系ミュージカル・スター。12人の混血孤児を育てた

※6 英国人女性が遺した170ドルが建設基金第一号になったので、その名に因んだ

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2006年2月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

三菱人物伝トップページへ戻る