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三菱人物伝

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青あるいは朱、白あるいは玄。 vol.23 澤田美喜 (下)青あるいは朱、白あるいは玄。vol.23 澤田美喜 (下)

澤田美喜と「わが子」たち

澤田美喜と「わが子」たち

戦後まもない日本だった。焼け跡、闇市、失業、貧困、浮浪児、街娼…。みんな、自分のことだけで精一杯だった。黒い子、白い子、祝福されずに生を受けた混血の子どもたちが、母に連れられて、駅に捨てられて、あるいは門前に置き去りにされて、大磯のエリザベス・サンダース・ホームに引き取られた。澤田美喜はもちろん保母たちも寝る時間を削っての懸命の毎日だった。

パリ時代からの親友ジョセフィン・ベーカー(※1)が、美喜がエリザベス・サンダース・ホームを作ったことを知ると、すっ飛んで来て、日本各地で公演し、資金確保に協力してくれた。その上、ホームの孤児ふたりを自らの養子として引き取ってくれた。

だが、世間は冷たく無神経だった。混血孤児たちが町に出ると露骨な好奇の目に曝された。「△△△△だぁ」「××××の子よ、やあねぇ」と差別語が飛び交い、思わず美喜が「この子たちに何の罪があるというの!」と、金切り声をあげることもあった。

昭和33年(1958)には創立10年記念の写真集『歴史のおとし子』が出版された。新聞や雑誌でも紹介され、敗戦のショックから立ち直りつつあった人々の感動を呼んだ。その本に、多くの混血孤児を養子として育てているパール・バック(※2)が序文を寄せた。彼女はここまで漕ぎつけた美喜の事業をたたえながらも、「幼い孤児たちを幸福にしてやるのはそれほど難しいことではない」とクールに述べた上で、「子どもたちが大人になった時、澤田夫人は同胞の男女の助けを必要とするだろう」とさらなる試練を予言した。

差別に耐える免疫

そう、混血孤児たちの試練はこれからが本番だった。ホームは敷地内にステパノ小中学校があり、いわば保護区だったが、最大の難関は子どもたちの社会への適合だった。美喜は、無条件の優しさは保母たちにまかせ、厳格な「ママちゃま」として振る舞った。厳しい躾(しつけ)を通じて社会の偏見と差別に耐えられるだけの免疫を作る。特に黒い肌の子には、愛しい「わが子」なるがゆえの愛の鞭。実際、それに耐え、強くなった者だけが、その後正々堂々の人生を切り開いたのだった。その一方で、残念ながら、美喜が警察に卒業生の身柄を貰い受けに行ったことは数えきれない。

エリザベス・サンダース・ホームは2000人に近い混血孤児を育て、半数近くを日本より偏見の少ない米国に養子として送り出した。さらに、より偏見の少ないブラジルのアマゾンに土地を買い、小岩井農場や三菱重工で技術を身につけさせた上で子どもたちを送り出したが、この方は16年の悪戦苦闘の末に挫折した。

美喜の、子どもたちの母としての愛情と厳しさは晩年になっても変わらなかった。子どもたちには身を挺して接し、子を置いていった母からの手紙に返事を書き、あるいは挫折しそうな卒業生の相談相手になった。それが一段落すると、わが身に鞭を打って講演の旅に出、世界に散らばった「わが子」たちを訪ねた。

昭和55年、美喜は妹の福澤綾子(※3)とスペインへの講演旅行に赴いたが、地中海のマジョルカ島で体調を崩して入院し、心臓麻痺により78歳でこの世を去った。特に「わが子」たちにはつらい知らせだったが、国際人美喜らしい終焉でもあった。人生を燃焼し尽くした「三菱の人ゆかりの人」だった。(完)

※1 アフリカ系ミュージカル・スター。多数の混血孤児を育てた

※2 中国に生まれ、『大地』などの小説を執筆。ノーベル文学賞受賞。多数の混血孤児を育てた

※3 福澤諭吉の孫堅次の妻

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2006年3月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

vol.22 澤田美喜 (上)vol.23 澤田美喜 (下)

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