| 岩崎彌之助 略年表/ストーリー | 年号/年齢 | 歴史上の出来事 |
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土佐国安芸郡井ノ口村に生まれる
三菱二代目社長岩崎彌之助。兄・彌太郎の亡きあと、智将・彌之助ならではのやり方で事業の多角化をはかり、今日の三菱グループの基礎を築いていく。 |
嘉永4年
/1851(0歳) |
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致道館に入学 |
慶応3年
/1867(16歳) |
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大阪に出て重野安繹の成達書院に学ぶ |
明治2年
/1869(18歳) |
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(九十九商会開設される) |
明治3年
/1870(19歳) |
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米国留学に出発
幕末・維新の嵐の中、血気にはやることなく沈着に勉強に励んだ。16歳で土佐藩校致道館に入学、18歳のとき大阪に出て重野安繹の成達書院に学び、21歳でニューヨークに赴き1年半余で英語をマスター。 |
明治5年
/1872(21歳) |
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父彌次郎没、米国留学から戻り三菱商会に入る、吉岡鉱山買収 |
明治6年
/1873(22歳) |
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台湾出兵の軍事輸送を受命、大阪より東京に移る 後藤象二郎の長女早苗と結婚 |
明治7年
/1874(23歳) |
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上海定期航路開設、第一船に搭乗し上海に赴く 長女繁子誕生、海運振興のため政府より命令書を受ける |
明治8年
/1875(24歳) |
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西南戦争軍事輸送受命、長崎に赴き指揮をとる |
明治10年
/1877(26歳) |
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長男小彌太誕生 |
明治12年
/1879(28歳) |
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三菱為換店設立 |
明治13年
/1880(29歳) |
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高島炭坑買収
台湾出兵や西南戦争の軍事輸送やビジネス戦線で実務経験を積み、のちに三菱の多角化路線を展開する際の重要な布石となる高島炭坑買収では捨て身で彌太郎を説得。 |
明治14年
/1881(30歳) |
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工部省長崎造船所借り受け |
明治17年
/1884(33歳) |
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彌太郎没、社長に就任
第百十九国立銀行経営引受、日本郵船設立 2年9か月にも及んだ海運の覇権をかけた共同運輸との壮絶なビジネス戦争は、両社合併による巨大海運会社、日本郵船の誕生で終結。智将・彌之助の、名を捨て実を取る采配だった。 三菱の銀行業は、海運会社の顧客サービスの荷為替金融を源流とする。三菱合資会社が第百十九国立銀行の業務を吸収し銀行部となり、のちに三菱銀行に発展する。日本初の損害保険会社・東京海上と生命保険会社・明治生命など、彌之助のもと、金融サービス事業が展開。 |
明治18年
/1885(34歳) |
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三菱社と改称
吉岡鉱山、高島炭坑、第百十九国立銀行、千川水道、長崎造船所など、「岩崎家」として経営してきた事業を「三菱」のものとし、多角化へ。外国人幹部を多く登用。 |
明治19年
/1886(35歳) |
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東京倉庫設立(現三菱倉庫)、長崎造船所払い下げ受ける
尾去沢・槙峰鉱山買収、新潟県稲作経営、児島湾干拓開墾着手 三菱製の最初の鉄船「夕顔丸」が竣工。彌之助の強いリーダーシップのもとに買収が実現した長崎造船所に積極的な設備投資が行われ、大胆な近代化が図られていった。 |
明治20年
/1887(36歳) |
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新入・鯰田炭坑を買収、筑豊の炭坑経営に乗り出す
海運事業を切り離した三菱は、経営の中心に鉱業を据えた。中小炭坑や金属鉱山を次々に買収。積極的な設備投資を行い、新技術導入により、生産を飛躍的に伸ばした。 |
明治22年
/1889(38歳) |
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丸の内・三崎町官有地取得、貴族院議員に勅選(翌年辞職)
丸の内の兵営跡と三崎町の練兵場併せて約10万坪を128万円、相場の2倍から3倍の額で取得。近代日本を象徴するビジネス街の誕生を意味する決断だった。 |
明治23年
/1890(39歳) |
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井上勝と岩手県に農場を開設(現小岩井農場)、家政改革に着手 |
明治24年
/1891(40歳) |
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三菱合資会社設立、社長を彌太郎長男の久彌に譲り監務となる |
明治26年
/1893(42歳) |
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丸の内に三菱第1号館竣工、三菱合資会社の本社を同館に移す |
明治27年
/1894(43歳) |
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三菱合資会社に銀行部を開設 |
明治28年
/1895(44歳) |
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男爵に叙せられる、日本銀行総裁に就任
三菱社を三菱合資会社に改組し、彌太郎の長男久彌を社長に据え、自らは「監務」となった。第4代日銀総裁に就任し、金本位制実施に向けて金融制度の画期的な転換を図るなど、活躍した。 |
明治29年
/1896(45歳) |
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日本銀行総裁を退任 |
明治31年
/1898(47歳) |
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欧米を旅行(3〜10月)
リタイアし、気楽な立場になった彌之助は7か月余り洋行。美術品や和漢の古典籍収集品を収めた静嘉堂文庫は、のちに長男小彌太によって世田谷の現在地に移設される。 |
明治35年
/1902(51歳) |
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長男小彌太三菱合資株式会社副社長に就任
英国留学から帰国した長男小彌太を三菱に入社させ、副社長として従兄の久彌社長の補佐役にした。次男俊彌は留学後、旭硝子を創始。長女繁子は松方正義蔵相の次男と結婚、三男輝彌は農園を経営。彌之助は57歳で病死。世田谷の静嘉堂のかたわらにあるジョサイア・コンドル設計の廟に眠る。 |
明治39年
/1906(55歳) |
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東京慈恵会顧問となる |
明治40年
/1907(56歳) |
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3月25日 没 |
明治41年
/1908(57歳) |
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(年齢は西暦の誕生日における満年齢)

