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三菱人物伝

朗読を聞く

海に風あり、山に霧あり、・・・岩崎彌之助物語・・・ vol.01 彌太郎の遺志を継ぐ海に風あり、山に霧あり、岩崎彌之助物語vol.01 彌太郎の遺志を継ぐ

岩崎彌太郎は、胃癌の激痛に苦しみながら茅町の本邸で死を迎えようとしていた。彌太郎の強烈な個性で引っ張ってきた三菱。それを叩き潰そうとする共同運輸。海運の覇権をかけた壮絶なビジネス戦争の真っ只中で、三菱の総帥が逝く。

1885(明治18)年2月。長男の久彌、弟の彌之助、母や姉のほか、川田小一郎、豊川良平、荘田平五郎ら会社の幹部たちが枕元に詰めていた。彌太郎の呼吸が乱れだした。一同、かたずをのんで最後を見守る。と、彌太郎、忽然として目をあけ、うなるように話しだした。

「…志したことの…十のうちの一か二しか出来なかった。…川田よ、…もう一度盛りかえしたい……」

死んでも死にきれない思いだっただろう。息もたえだえに続ける。

「久彌を嫡統とし…彌之助は久彌を輔佐せよ…。小早川隆景が毛利輝元を輔佐したごとく、彌之助、頼むぞ。彌之助、川田よ、わしの志を継いで、事業をしっかり頼む……」

彌之助がきっぱりと答える。

「兄上、彌之助いのちある限り、粉骨砕身努力します。ご安堵下さい」

彌太郎はうなずき、弱々しく「もう何も言わん。腹の中が裂けるようだ…」と顔をゆがめ押し黙り目を閉じた。ややあって、目をあけ、さようならをするように右手を少し上げると、静かに永久の眠りについた。

『岩崎彌太郎伝』にある、彌太郎の最後の様子である。豊川が書き残した『臨終の記』に基づいている。

兄よ、おまかせあれ

彌太郎の母・美和も、最後の様子をほぼ同じように書き残している。

「その時、彌太郎から彌之助への遺言がありました。久彌を嫡統として彌之助が後見となり、小早川を手本としてこれまでの彌太郎の趣意を必ず守るように、とのことで、それはそれは立派な申し置きで恐れ入るばかりでした。…彌之助は、仰せの通り鬼になって力の限りを尽くします、と答えました。…二人は最後まで心を通わせていました……」(『美福院夫人手記』)

元来が筋骨たくましく身体強健な彌太郎は斗酒なお辞せずの酒豪で、事業の進展に合わせるように無理に無理を重ねてきた。しかし、頭痛に悩まされることも多くなり、しばしば現場を彌之助にゆだね、熱海や伊香保で静養した。共同運輸との戦いが始まるころには胃潰瘍も加わり、主治医から摂生を強く促されていた。だが、少しでも小康を取り戻すとじっとしていられない彌太郎だった。

数万人が会葬したという盛大な葬儀の3日後、彌之助は彌太郎の遺志を継ぐことを全社員に宣言した。

「…不肖ながら社長の任を相続し、今後諸君とともに一意わが海運の事業を拡張する所存である…世間においては種々憶測もあろうが、こと海運事業に関しては亡き兄の宿志を継ぎ、不撓不屈奮励の所存である……」

まさに共同運輸に対する弔い合戦の宣言だった。

が、実は彌之助は、三菱・共同の共倒れを避ける方策を模索していた。直情径行の彌太郎流ではなく、智将・彌之助ならではのやり方で。兄よ、おまかせあれ。彌之助はやるべきことはやります。

三菱二代目社長岩崎彌之助。事業の多角化をはかり、今日の三菱グループの基礎を築いた男。その業績と生きざまは―――。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年5月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

vol.01 彌太郎の遺志を継ぐvol.02 土佐・大阪・ニューヨーク

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