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三菱人物伝

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海に風あり、山に霧あり、・・・岩崎彌之助物語・・・ vol.02 土佐・大阪・ニューヨーク海に風あり、山に霧あり、岩崎彌之助物語vol.02 土佐・大阪・ニューヨーク

ペリーの黒船が浦賀に来たのは1853(嘉永6)年である。その2年前、岩崎彌之助は土佐の井ノ口村に生まれた。16歳違いの兄・彌太郎がいた。父・彌次郎は飲んだくれで頑固者の元郷士、母は町医者の娘でしっかり者。幕藩体制のほころびは如何ともしがたく、日本各地で風雲急をつげている時代だった。

1867(慶応3)年、彌之助16歳のとき藩校致道館に入った。文武両道を学ぶ。四書五経から兵学にいたるまで、さらには黒船来航に備えての集団闘争の訓練まであった。土佐藩では後藤象二郎が参政になり、山内容堂は大政奉還の建白書を提出した。やがて王政復古、まさに幕末・維新の嵐の中だったが、彌之助は動じることなく勉学に励んだ。

このころ、血気にはやることなく沈着に勉強した優等生は他にもいた。馬場辰猪はのちに福沢諭吉に学び英国に留学、自らを自由民権運動に投じた。中江兆民はフランスに留学、ルソーの民約論を訳すなど自由主義思想を広めた。少し後輩の植木枝盛は板垣退助を支え、自由党結成に導いた。致道館の俊英たちである。

1869(明治2)年、彌之助18歳。兄・彌太郎は長崎から大阪に移り、土佐藩の経済官僚として開成館大阪出張所(大阪商会)で物産の売買や海運を指揮していた。彌之助はこの兄を頼って大阪へ出、西長堀の土佐屋敷に住み込んだ。重野安繹の私塾成達書院に通い、漢学を学ぶかたわら彌太郎のアドバイスで米国人医師に英語を学んだ。明治4年、廃藩置県。三菱の原点である九十九商会を立ち上げていた彌太郎は本格的に実業界に乗り出し、東奔西走していた。

こんな世界があったんだ!

欧米視察に行く岩倉大使の一行が津田梅子など50名余の公費留学生とともに国を出たのが明治4年。その翌年、彌太郎のすすめで彌之助はニューヨークに赴く。このとき渡航手続きをしてくれたのが、彌太郎の長崎以来の取引先であるウォルシュ兄弟である。ちなみに同兄弟が長崎から神戸に移って建設した製紙工場は、今日の三菱製紙の母体になった。

英和辞典とわずかな身の回り品を持って摩天楼のニューヨークに着いた彌之助、興奮のきわみである。こんな世界があったのだ。ウォルシュの一族の世話で英語を学びながら大いに見聞を広めた。彌之助が大学に通った形跡はなく、英語がどの程度できたかは不明だが、のちに管事・川田小一郎の長男龍吉が英国に留学した際に手紙を書いている。「英語を学ぶ早道は日本人とはつきあわないことだ。私はそうしたから十六ヶ月で英語をマスターすることができた」。

筆まめな彌太郎からは頻繁に手紙が来た。異国での生活への気遣いから始まって、日本の情勢、九十九商会の事業、船旗にスリーダイヤのマークを採用したこと、家族を大阪に引き纏めたこと、などなど。

1873(明治6)年、彌太郎が社名に三菱を名乗り海運界に雄飛しようとしていたとき、父が亡くなった。彌之助に彌太郎から手紙が来た。即刻帰国して片腕になってほしい、と。彌之助はニューヨーク滞在を1年半で切り上げ、11月に帰国した。ビジネスマンとしてのスタート。大阪西長堀の三菱商会。22歳だった。

翌明治7年、三菱商会は東京に本拠を移し、日本国郵便蒸汽船会社との本格的競争に入った。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年6月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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