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三菱人物伝

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海に風あり、山に霧あり、・・・岩崎彌之助物語・・・ vol.03 彌太郎を支えて 副社長時代海に風あり、山に霧あり、岩崎彌之助物語vol.03 彌太郎を支えて 副社長時代

エキサイティングな1年半余をニューヨークで送った彌之助は、1873(明治6)年、大阪に戻り、今でいう副社長として三菱商会に入った。

翌年、三菱は本拠を東京に移し勝負に出た。武家の商法にならぬようおかめの面を店頭に掲げ、社長以下サービス第一に徹してライバル日本国郵便蒸汽船に競り勝った。社名を郵便汽船三菱会社に変更してさらに勢いにのる。

当時の幹部の集合写真を見ると、彌之助はまだまだ書生くさい顔で荘田平五郎らと後方におり、当然のことながら彌太郎が前列中央に石川七財や川田小一郎を従えて胸を張る。

彌之助は、台湾出兵の際の軍事輸送や内外の競合他社とのビジネス戦線で実務経験を積み、西南の役の際には長崎で軍事輸送の陣頭指揮を執った。その後、東京海上保険・三菱為換店・明治生命・日本鉄道(現在の東北本線)の設立など新分野での経験を重ね、やがて本業の海運業で共同運輸と壮絶なサバイバル戦を、彌太郎とともに戦うのである。

副社長時代の後半の彌之助は三菱の後継者として重要な役割を果たすことが多かった。その最たるものが、明治14年の高島炭坑の買い取りである。これはのちに彌之助が三菱を引き継ぎ、三菱の多角化路線を展開する際の重要な布石となる。

捨て身で彌太郎を説得

高島炭坑は元禄年間から鍋島藩が細々と採掘していたが、明治7年に国有となった。それを後藤が払い下げを受けてひと儲け企んだが労使問題は泥沼化、経営は火の車で進退きわまっていた。そこに現れたるは福沢諭吉。政治家としての資質の高い後藤象二郎が借金漬けで潰れてしまうのは惜しい。後藤を救うべく、かねて懇意の三菱に高島炭坑の買い取りを依頼する。しかし彌太郎はなかなか「うん」と言わない。恩人とはいえ、後藤の二枚舌にはこれまで何度も煮え湯を飲まされていたのだ。

彌之助はというと、高島の推定埋蔵量、出炭予想、収支予想、既存施設の資産価値、三菱の船腹を利用することの意味、石炭販売の利ざや等を総合的に評価、「これは買収すべし」と彌太郎を執拗に説得する。

13年7月、さしもの彌太郎もついに折れた。ところがその後、後藤側の事実隠蔽がまたまた発覚。彌太郎は静養先の熱海から彌之助と石川七財に怒りの書状をぶつけた。

「一旦象二郎に60万なら引き受けると言ったが、こうまで不都合が明らかになっては象二郎を助ける心いささかもない・・・我が違約するのではない。象二郎が我をごまかし、我を愚弄するのだ・・・貴様ども、象二郎の苦労をわが社に持ち込むな・・・」

彌之助は福沢に助けを求める。福沢は大隈重信に応援をたのむ。大隈が彌太郎に書状を送り「些細なことで怒るな」となだめる。二転三転。すんでのところで買収劇は破談になるところだったが、14年3月に契約はようやく成立した。三菱が後藤に払った金額は結局97万円に膨れた。

しかし、彌之助の計算どおり高島炭坑は明治20年代における三菱最大の事業となって大きな収益をもたらし、三菱が海運事業から鉱業や造船を中心とする一大産業資本に発展する核になった。後藤象二郎は彌之助の岳父であるが、情実ではなく彌之助の経営者としての判断に基づく捨て身の彌太郎説得だった。

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年7月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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