このページの本文へジャンプ

三菱グループのポータルサイトです。
文字サイズ
  • 小
  • 中
  • 大

三菱人物伝

朗読を聞く

海に風あり、山に霧あり、・・・岩崎彌之助物語・・・ vol.04 日本郵船の誕生海に風あり、山に霧あり、岩崎彌之助物語vol.04 日本郵船の誕生

1874(明治7)年の台湾出兵にあたり、内外の船会社から協力を断られた日本政府は、急遽新興の三菱に白羽の矢をたてた。彌太郎は「国家の有事にあっては私利をかえりみず」と即座にこれを受け、全社をあげて軍事輸送にあたった。任務を達成し、勢いをつけた三菱は、その後、英米の海運会社との激しい競争の末に、民族資本による沿岸航路の運航を確立した。また、明治10年の西南の役では船舶徴用命令にしたがい社船40隻、傭船4隻を投入して政府軍の輸送にあたった。

こうした三菱の国家への貢献は政府のさまざまな援助を引き出し、時代の流れの中で重要な役割を果たしながら業績を伸ばす。上海、香港、仁川、ウラジオストクにも航路を開設、近海航路の独占体制を確立した。まさに日の出の勢いである。

しかし、当然それを良しとしない者はいる。明治14年の政変で大隈重信が失脚し薩長閥が権力を握ると、三菱に対する政府の姿勢は一変した。三菱の独占を崩すべく、井上馨、品川彌二郎、渋澤栄一、益田孝などなど、政財界の大物が語らって半官半民の海運会社が設立された。明治16年1月、共同運輸会社営業開始。

かくして、三菱と共同運輸の存亡を賭けての2年9か月に及ぶ戦いの幕が切って落とされた。彌太郎の反骨精神はメラメラと燃え、強気一辺倒で反発する。が、実はこのころ耐えがたい胃痛で苦しんでいた。しかし兄がダメなら弟の彌之助がいる。三菱はまず政府から下付された船舶代金の残額を完済して足かせを外し背水の陣をとった。香港、琉球など不採算航路を閉鎖、老朽船の売却などリストラを敢行、格安運賃で客の取り込みを図る。共同も負けじと、運賃引き下げ、リベート増額。ついには、同日同時刻に出航して互いに航路を譲らず衝突事故まで起こす始末。

彌太郎の死と郵船の誕生

民族資本による海運業の育成は維新以来の国策である。このままでは共倒れになるのは必至。しかし三菱も共同も頑として妥協しない…。
明治18年2月、彌太郎は無念の死を遂げた。後を継いだ彌之助は徹底抗戦を宣言。しかし水面下で妥協点を模索する智将でもあった。管事の川田がひそかに井上馨外務卿など政府要人とコンタクトをとり解決の糸口を探る。誰の目にも両社を合併させる以外に妙案はなかった。政府は動いた。共同運輸の経営陣を入れかえ、その上で三菱に合併同意を求めた。彌之助は「たとえ三菱の旗号は倒れ、・・・実に忍びがたいものがあっても、国の大計のためには」やむなしと判断する。かくして三菱・共同の不毛の戦いは終わった。

明治18年9月、日本郵船誕生。三菱は海運関係の資産一切と、幹部を含む五百余名の職員と千余名の船員を差し出した。出資比率は三菱5対共同6。社長には共同の森岡昌純社長が就任した。所有船舶58隻、総トン数6万8000。巨大な民族資本の海運会社の誕生である。日本郵船。船旗は白地に赤い線が2本。三菱と共同を意味する。

共同の株主には三菱関係者も多かったので、2社合わせると過半数は三菱側だった。筆頭株主は彌太郎の跡取り久彌。次が大蔵省で3番目は彌之助だった。名を捨て実を取る。これぞ彌之助流。2代目社長には三菱出身の吉川泰二郎がなった。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年8月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

三菱人物伝トップページへ戻る