このページの本文へジャンプ

三菱グループのポータルサイトです。
文字サイズ
  • 小
  • 中
  • 大

三菱人物伝

朗読を聞く

海に風あり、山に霧あり、・・・岩崎彌之助物語・・・ vol.05 事業の多角化と人材登用海に風あり、山に霧あり、岩崎彌之助物語vol.05 事業の多角化と人材登用

海運事業のすべてを日本郵船に移譲すると、郵便汽船三菱会社は1885(明治18)年9月30日をもって閉鎖した。しかし三菱には海運以外の事業があった。吉岡鉱山、高島炭坑のほか、第百十九国立銀行や千川水道、長崎造船所などである。ただし、これらは「岩崎家の事業」ということになっていた。明治8年の第一命令書および翌年の第二命令書により、郵便汽船三菱会社は(政府の破格の補助を受けていたため)海運以外の事業を禁止されていたからである。

彌之助は明治19年3月、東京府知事に書状をしたためた。
「弊社は、先般海運事業を日本郵船会社に譲渡いたしたるも、今後は社名を単に『三菱社』として、高島炭坑ならびに長崎造船所等の事業を行う所存ゆえ、念のためお届け申し上げる。 三菱社長 岩崎彌之助」

さあ、「海運以外の事業の禁止」の呪縛が解けた。すでに育んでいた多角化の苗が力強く生長を開始する。

そもそも、吉岡鉱山は川田小一郎が交渉して明治6年に松山藩主板倉家から買い取ったものである。高島炭坑は紆余曲折の末、14年に後藤象二郎から買い取った。17年に借り受けた長崎造船所は三菱の海運事業の一環だったが、日本郵船には引き継がず手許に残した。転んでもタダでは起きなかったわけだ。

彌之助を支えるのは彌太郎以来の多彩な人脈だった。彼は近代的な企業にとってキーになるのは優秀な人材の確保だということを認識していた。豊川良平などが積極的に動き、福沢諭吉の慶應義塾から荘田平五郎(のちの管事)、山本達雄(三菱から日銀に転じ日銀総裁)など多くの人材をリクルートした。役人志向の強い東京帝国大学関係の学生も青田買いで迎え入れた。南部球吾(管事兼炭坑部長)、近藤廉平(日本郵船社長)、末延道成(東京海上火災保険会長)、加藤高明(三菱から政界に転じ首相)等々、いずれも三菱のみならず各界をリードすることになる人材である。

外国人の登用とグラバー

外国人の幹部登用についても前向きだった。デンマーク人フレデリック・クレブスは明治6年入社の鉱山技師で当初は炭坑の採掘指導にあたったが、のちに本社に呼ばれ石川七財、川田小一郎に次ぐ管事にまで上りつめた。現在でいえば技術ならびに国際人材担当役員といったところ。もともと三菱には外国人社員が多く、明治15年には従業員2500人中400人を数え、各支社には日本人と外国人の支配人が1名ずついた。クレブスはその頂点にいた。

グラバー邸で有名なトマス・グラバーはイギリス人。長崎で薩長土を相手に、船舶、武器、機械類を取引し、鍋島藩の高島炭坑経営にも協力した。倒幕に大きな役割を果たしたが、皮肉にも維新後は武器が売れず明治3年に倒産した。グラバー自身はその後も日本で活動し、三菱が高島炭坑を買い取ってからは三菱の渉外担当顧問として、彌太郎、彌之助、久彌に仕えた。現在は妻つるとともに長崎の国際墓地に眠る。

彼らは彌之助というよりは彌太郎の人脈だが、初期三菱において重要な役割を果たし、彌之助の推進した「事業の多角化」に貢献した。このほか、社員ではなかったがアメリカの貿易商ウォルシュ兄弟や、イギリス人建築家ジョサイア・コンドルなども彌之助の力となった。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年9月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

三菱人物伝トップページへ戻る