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三菱人物伝

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海に風あり、山に霧あり、・・・岩崎彌之助物語・・・ vol.06 金融事業の展開海に風あり、山に霧あり、岩崎彌之助物語vol.06 金融事業の展開

三井住友銀行になった住友銀行は銅精錬事業のかたわら始めた両替商が出発点。同じくさくら銀行の前身・三井銀行は呉服店越後屋の西隣に開店した三井両替店が始まり。みずほグループの富士銀行は両替兼食品小売の安田屋が原点である。

東京三菱銀行の生い立ちはちょっと違う。旧東京銀行の前身・横浜正金銀行は、1880(明治13)年、貿易金融により「金銀正貨」を獲得することを目的に設立された。一方、旧三菱銀行は、海運会社が顧客サービスの一環として始めた荷為替金融に源流がある。明治13年に郵便汽船三菱会社から分離独立し「三菱為換店」として営業を開始した。が、同18年、日本郵船が設立され海運が三菱から切り離されたのを機に廃業、従業員の多くは三菱が経営を引き受けていた第百十九国立銀行に移った。

明治28年に三菱合資会社に銀行部が設置され、第百十九国立銀行の業務はこれに吸収された。初代部長はのちの管事豊川良平。景気の低迷で弱小銀行が破綻するなか、銀行部は着実に業績を伸ばした。当時の神戸支店の光景について「...営業室は畳敷きで、お客は土間の椅子に腰掛けている。私たちも洋服ではなく、着物に角帯、前掛けだった...」と書き残されている。

金融業務とともに分離独立したのが倉庫業務。七ツ倉と呼ばれた三菱の江戸橋倉庫は、東京名所として当時の錦絵にも描かれた。18年に三菱為換店が廃業した際に倉庫業務はいったん郵便汽船三菱に戻されたが廃業、20年にあらためて東京倉庫として設立された。32年には三菱合資の銀行部が全株式を取得。 1918(大正7)年、社名を三菱倉庫に変更し、業績を伸張させていった。

日本初の保険会社の設立

わが国初の損害保険会社・東京海上火災保険は明治12年に設立された。発起人は澁澤栄一。筆頭株主は華族組合。次が岩崎彌太郎だった。三菱が早くから損保の必要性を政府に訴えていたこともあって、オールジャパンで立ち上げるとき、こういう組み合わせとなった。翌13年、郵便汽船三菱とともに三井物産が代理店になり、英、仏、米でも営業を開始した。以来、東京海上は国力に比例して伸びていく。29年には荘田平五郎が取締役会長に就任している。

近代的な生命保険の概念は福澤諭吉によってもたらされた。明治12年の暮れ、三菱の忘年会で荘田平五郎を始めとする福澤門下生たちの話がたまたま生命保険のことに及び、それがきっかけでやがて日本初の生命保険会社明治生命が設立されることになった。明治14年のことである。頭取の阿部泰蔵ほか荘田ら三菱の慶応人脈が役員に名前を連ねる。19年には、福澤が経営の安定のために岩崎久彌に株式の買い取りを依頼、久彌はこれに応じて筆頭株主になった。

以上は彌太郎・彌之助・久彌三代にわたる時代のことである。総帥自らが金融の陣頭指揮を執ることはなかったが、荘田はじめ関係者は総帥の意を体したプロだった。三菱の多角化路線の強力な支援部隊だった。

なお、東京三菱銀行とともに三菱東京フィナンシャル・グループとなった三菱信託会社は、1927(昭和2)年に三菱合資を中心に設立された。東京海上の各務鎌吉会長が初代会長。信託「銀行」となったのは戦後のことである。(つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2001年10月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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