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三菱人物伝

朗読を聞く

海に風あり、山に霧あり、・・・岩崎彌之助物語・・・ vol.11 現役を退いて海に風あり、山に霧あり、岩崎彌之助物語vol.11 現役を退いて

わが国の発展とともに三菱を一大産業資本に育て上げ、最後は日銀総裁も務めた彌之助だったが、リタイアしてからは気楽な立場になった。1900(明治 33)年に岩崎家のゴッドマザーともいうべき、母・美和が86歳で亡くなった。それを機に彌之助は丼勘定だった岩崎家の経理を整理し、分家の勘定を岩崎本家から独立させた。故郷の井ノ口村に錦を飾り、生家を修繕し、丘の中腹の先祖代々の墓所を整備した。

明治35年には、当時の多くの成功者がそうするように7か月余りかけて洋行した。20世紀初頭の欧州の物質文明を目の当たりにして、帰朝したが、報告はもっぱら精神的なものだった。

「・・・わが国が文明国と伍するようになったの喜ばしい限りであるが、社会の現状を見るとお寒い限りである。封建時代の秩序は打破されたが新たな体系はまだできていない。・・・わが国は、責任を重んずることにおいて、規律を正すことにおいて、礼儀を尊ぶことにおいて、西欧と比べあまりに遺憾とすべきことが多い。・・・先進国と伍するには社会変革が前提であり...自らを省みることから始まる・・・」

熱血彌太郎とは違う、いかにも智将彌之助らしい人間の本質に関わるスピーチであり、根底にあるのは義を尊ぶ武士道の精神である。

多趣味の人、その遺産

彌太郎もそうだったが、彌之助は子どもたちの教育には心をくだいた。本家同様、分家も学寮を建てた。長男の小彌太と次男の俊彌は中学に入ると駿河台の本邸から出され、優秀な学生とともにその学寮に住まわされた。厳しい先輩の下で質素剛健を旨とした規律ある生活をし、休みの日のみ本邸に帰宅することが許された。二人は青春真っ只中。そういう生活をエンジョイしていた。山歩きや狩猟、海水浴、あるいはボート、テニスに忙しかった。

彌之助は多趣味の人だった。東洋文化に格別の愛情を持ち、美術品や和漢の古典籍収集はもとより、建築、造園、園芸等々、趣味は数えればきりがない。彌之助の収集品を収めた静嘉堂文庫/美術館は、1924(大正13)年に小彌太によって世田谷の現在地に移設され、曜変天目茶碗など小彌太の収集品が加わる。 1940(昭和15)年に財団法人になり、研究者や一般に開放されている。現在、国宝7点、重要文化財82点を収蔵している。

書画や茶道具に関する逸話は他の機会に譲るが、刀剣についていえば、趣味というより廃刀令で不要になった日本刀が二束三文で欧米に流失するのを憂えて買い集めたものである。やがて彌之助は刀剣の持つ精神的なものに惹かれ、目も利くようになり、購入を選別するようになった。

和漢の古典籍についてもふれておこう。彌之助は漢学を土佐の致道館で学んだのち大阪に出て重野安繹(しげのやすつぐ)に師事した。その後米国にわたり帰国してビジネスの世界に飛び込んだ彌之助は、特に漢学の素養があったというわけではない。しかし、恩師重野が修史局編修長として国史を編纂することになってからは、私財を投入して漢籍収集に協力する。今日、静嘉堂に大切に所蔵されている古典籍は20万冊。その中で、清の蔵書家陸心源から購入した図書4万冊は、中国の古典研究に欠かせない存在という。 (つづく)

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年3月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

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