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三菱人物伝

朗読を聞く

海に風あり、山に霧あり、・・・岩崎彌之助物語・・・ vol.12 家族とともに海に風あり、山に霧あり、岩崎彌之助物語vol.12 家族とともに

彌之助の縁談はニューヨーク留学直前にまとまった。相手は後藤象二郎の長女早苗である。横浜のフランス人の家庭に寄宿して英語やフランス語を学び、乗馬もこなす先進的な女性。ニューヨークに押しかけるつもりだったが、新しい見聞に集中したいという彌之助の意向で実現しなかった。彌之助が帰国し、三菱が東京に進出した1874(明治7)年の秋、二人は結婚した。

彌之助夫妻ははるかに東京湾が見渡せる駿河台東紅梅町の高台に住んだ。現在の御茶ノ水駅の近く、日立製作所の本社のあたりである。もとは後藤象二郎の家で、モダンな洋館だった。当時の錦絵にも東京名所「後藤の洋館」として描かれていた。

夫妻の三男一女はその洋館で生まれ育った。長男の小彌太はケンブリッジ大学を卒業後、久彌社長のもとで三菱の副社長になり、のちに4代目社長になった。大正から昭和、そして戦時下の三菱を28年にわたって率いた。次男俊彌はロンドン大学で応用化学を学び、帰国して旭硝子を創始した。長女繁子は松方正義蔵相の次男と結婚、三男の輝彌は畜産の専門家となり都下で農園を経営した。

彌之助は早くから高輪の高台に土地を購入していた。伊藤博文の屋敷跡で、眼下に海が広がっていた。後に買い増した分も含めて1万9000坪。明治の富豪や華族は競って洋館を建てたが、彌之助も1903(明治36)年になってまず駿河台から日本家屋を移築、併行してジョサイア・コンドル設計の煉瓦造り石貼りの二階建て洋館の建設に着手した。40年、彌之助夫妻は駿河台から高輪の日本家屋に移った。洋館はまだ建築中だが悠々自適の生活。広い庭園の木や花をいじり、盆栽をめでる。そうだ、たまには温泉にも行こう。

「何の不平もなし」

しかし、このころから彌之助は体調を崩し、大磯や箱根の別邸に静養することが多くなった。やがて東大病院に入院する。上顎骨癌腫と診断され、秋口にはX線で癌腫を焼き切る治療を受けた。食事もとれず口もきけないつらい闘病生活になったが、彌之助はすべてを医者にゆだね弱音をはくことは決してなかった。だが、懸命の治療の甲斐もなく、1908(明治41)年の春、ついに帰らぬ人となった。「苦しくありませんか」との医師の問に筆談で答えた「何の不平もなし」が絶筆になった。

高輪の壮大な洋館は41年12月に完成した。しかし、彌之助が住むことはなかった。小彌太夫妻が一時移り住むが数年で駿河台に戻っている。

洋館は永らく岩崎家と三菱の迎賓館として使われ、1938(昭和13)年に三菱社に移管された。「開東閣」の名はその際に小彌太社長によってつけられたのだった。

空襲で日本家屋は灰燼に帰したが洋館は内部焼失にとどまった。昭和39年に修復され三菱グループのゲストハウスとして復活した。さらにこのほど築90年のリニューアルがなされ、高い芸術性と豪華な雰囲気の中に21世紀の賓客を迎えている。

事業の多角化は、海に風あり、山に霧あり、決して容易なことではなかった。されど、彌之助は敗けなかった。あらゆる困難をひとつひとつ克服し、今日の三菱の基礎を築いた。

岩崎彌之助。享年57歳。世田谷の静嘉堂のかたわらにあるジョサイア・コンドル設計の廟に眠る。(完)

※ 現在の御茶ノ水ソラシティ

 

文・三菱史料館 成田 誠一

三菱広報委員会発行「マンスリーみつびし」2002年4月号掲載。本文中の名称等は掲載当時のもの。

vol.11 現役を退いてvol.12 家族とともに

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