| 岩崎彌太郎 略年表/ストーリー | 年号/年齢 | 歴史上の出来事 |
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岩崎彌太郎誕生
三菱を創始した岩崎彌太郎は、天保5(1835)年、土佐国安芸郡井ノ口村の貧しい家で生まれた。甲斐武田の末裔とされる岩崎家の家紋は「三階菱」だった。 |
天保5年
/1835(0歳) |
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江戸遊学に出る
父・彌次郎、母・美和のもと、エネルギッシュな若者に育った彌太郎は、江戸遊学への思いを募らせる。その夢が、奥宮慥斎の従者ということで実現する。 |
安政元年
/1854(19歳) |
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江戸で安積艮斎に学ぶ
彌太郎は江戸で、念願の安積艮斎の見山塾に入る。この頃から彌太郎の中で、治国経世の学を修めて自らの処世に結びつけようという意識が強くなっていた。 |
安政2年
/1855(20歳) |
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吉田東洋の門に入る
我が家の一大事で江戸から帰国した彌太郎は、奉行所により投獄されてしまう。同房の商人から算術を学ぶと、出獄後は村を出て吉田東洋の少林塾に入門する。 |
安政5年
/1858(23歳) |
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長崎派遣/郷士格の回復/土佐藩開成館貨殖局に出仕
藩命により長崎に派遣された彌太郎だが、金策のため無断帰国した咎で罷免となる。やがて郷士株を買い戻し、27歳で喜勢と結婚、長男・久彌が誕生する。 |
安政6年
/1859〜慶応2年 /1866 (24歳〜 31歳) |
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開成館長崎出張所に赴任
再び長崎へ赴任する彌太郎。後藤象二郎に開成館長崎商会の主任を命ぜられる。グラバー、ウォルシュ兄弟などの世界の商人を相手に経済官僚として奮戦した。 彌太郎と親交のあった後藤象二郎は、同じく土佐に生まれた坂本竜馬と共に上洛する。長崎商会の後事を託された彌太郎は海援隊の活動を支えた。 |
慶応3年
/1867(32歳) |
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開成館大阪出張所へ異動、九十九商会開設
開成館大阪出張所に異動。責任者に抜擢された彌太郎は土佐藩の権少参事に昇格し、土佐藩士たちが設立した海運を主事業とする九十九商会の活動を監督した。 |
明治2年
/1869〜明治3年 /1870 (34歳〜 35歳) |
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廃藩置県により藩吏の職を辞す/三川商会に改称
彌太郎は大阪の土佐藩邸の責任者になり、藩の政務や大阪商会の活動を取り仕切った。一方、土佐藩邸の屋敷神として崇められたのが、土佐稲荷だった。 |
明治4年
/1871〜明治5年 /1872 (36歳〜 37歳) |
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三菱商会に改称、吉岡銅山を経営
廃藩置県後、彌太郎は九十九商会の経営を引き受けた。九十九商会は「三川商会」に社名変更し、その後船旗の三つの菱形にちなんで「三菱商会」となる。 初期九十九商会の商標は、中央の円から三方に菱形が長く伸びたデザインだった。三菱商会に改称後の彌太郎の手紙には、「三菱は |
明治6年
/1873(38歳) |
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東京移転、台湾出兵の軍事輸送を受命、三菱蒸汽船会社に改称
東京に移転し、三菱蒸汽船会社と改称。国から台湾出兵の軍事輸送を受託する。その後13隻の大型船を運航することになった三菱は大きく力をつけていく。 |
明治7年
/1874(39歳) |
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上海定期航路開設、郵便汽船三菱会社に改称、三菱製鉄所を創設
明治8年、彌太郎の夢への第一歩、横浜・上海間航路が開かれると、外国企業との攻防が始まる。「第一命令書」の発令により三菱は政府御用達となる。 土佐出身者の多かった三菱だが、荘田平五郎ら福沢諭吉の門下生も入社した。彼ら学識者は三菱の会社規則を作るなど、近代化に大きな役割を果たしていく。 |
明治8年
/1875(40歳) |
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三菱商船学校設立
台湾出兵後、海運会社の育成が急務とされ、船員養成を目的に三菱商船学校が設立される。明治11年には実業家育成の為の三菱商業学校も開校した。 外国企業との価格競争に勝利した彌太郎は、この勝利は社員の奮闘の賜であるとして、明治9年末、社員に資格ごとに一律で賞与を支給することにした。 |
明治9年
/1876(41歳) |
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西南戦役軍事輸送受命
明治10年、西南戦争が起こると三菱は社船の徴用を命じられた。この時の軍事輸送は、国家の信頼を得るとともに、三菱の一大発展の財政的基盤を築いた。 |
明治10年
/1877(42歳) |
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三菱商業学校設立
彌太郎は西南戦争で得た利益を元に産業資本を形成する傍ら、東京に屋敷を三つ購入した。現在の旧岩崎邸庭園、清澄庭園一帯、そして六義園の一帯である。 |
明治11年
/1878(43歳) |
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東京海上保険会社の設立を援助/三菱為替店設立/千川水道会社設立
九十九商会の経営で実業家となった彌太郎。その後は吉岡銅山の入手をはじめ、金融や倉庫業、水道事業、海上保険、生命保険など、あらゆる分野に参入した。 万事にがむしゃらな彌太郎だが、母・美和は生涯を通して心の安定をもたらす存在だった。彌太郎を産み育て、支え、そして看取った偉大なる母であった。 |
明治12年
/1879〜明治13年 /1880 (44歳〜 45歳) |
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高島炭坑を買収/明治生命保険会社の設立を援助
大隈重信を警戒した伊藤博文は、大隈が助成を推進する三菱も警戒。政府は三菱に対抗しうる海運会社として、アンチ三菱連合の共同運輸を設立させる。 明治の日本経済を代表する実業家、岩崎彌太郎と渋沢栄一。全く異なる経営信念を持っていた二人が、共同運輸会社と郵便汽船三菱会社の戦いで対峙する。 |
明治14年
/1881〜明治15年 /1882 (46歳〜 47歳) |
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共同運輸会社開業、三菱会社と競争/工部省長崎造船所を借用
共同運輸が営業を開始すると、たちまち三菱との熾烈な競争に突入する。共倒れを危惧した政府の仲介で両社は合併を決定。明治18年に日本郵船が発足する。 |
明治16年
/1883〜明治17年 /1884 (48歳〜 49歳) |
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2月7日、病のため永眠
50歳で生涯を閉じた彌太郎。遺志に従って三菱は彌之助が引き継ぎ、さらに久彌、小彌太が継承し、そして、世紀を二度跨いで今日の三菱グループとなった。 |
明治18年
/1885(50歳) |
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