三菱広報委員会

三菱グループの礎を築いた4代社長

三菱の創業者 岩崎彌太郎、第二代社長 岩崎彌之助、第三代社長 岩崎久彌、そして第四代社長 岩崎小彌太。
この4人の社長により、現在のさまざまな分野で活動する三菱グループの礎が築かれました。

写真提供: 三菱史料館

1835(天保5)年、土佐国の井ノ口村(現在の高知県安芸市)に元郷士の貧しい家の長男として生まれました。19歳で江戸へ出て安積艮斎(あさかごんさい)の見山塾で勉学に打ち込みますが、父が庄屋と争い重傷を負ったため帰郷、それに猛然と抗議したため投獄されます。出獄後、吉田東洋の少林塾に入り後藤象二郎らの知遇を得ます。59(安政6)年、土佐藩の藩命で長崎に派遣され武器や艦船の輸入、土佐産品の輸出を担当。27歳の時に喜勢と結婚し長男久彌が誕生します。67(慶応3)年、再び長崎に赴任しグラバーなどの世界の商人を相手に経済官僚として奮戦。この頃、海援隊を支援しています。70(明治3)年には土佐藩の海運事業を継承するために九十九(つくも)商会を設立。これが「三菱」の創業となります。74(明治7)年に本拠地を東京に移し、その後、社名を「郵便汽船三菱会社」と改め、国から台湾出兵の軍事輸送を受託。77(明治10)年の西南戦争で政府軍の輸送を一手に引受けるなど、彌太郎は強力なリーダーシップを発揮し事業を発展させます。しかし85(明治18)年、共同運輸との熾烈な競争が始まり、その不毛な消耗戦の中、病に苦しむ彌太郎は同年に50歳で生涯を閉じます。

1851(嘉永4)年に彌太郎の弟として生まれました。16歳で土佐藩校致道館に入学。69(明治2)年、18歳の時に彌太郎を頼り大阪へ行き、重野安繹(しげのやすつぐ)の成達書院で漢学を学び、土佐藩邸で米国人より英語を習います。21歳でニューヨークに赴き、全寮制の学校に入学。1年5ヵ月後、父の急死により帰国すると彌太郎の海運事業を補佐するべく「三菱商会」に入社。74(明治7)年、後藤象二郎の長女早苗と結婚、翌年長女繁子が誕生。79(明治12)年に長男小彌太が生まれます。85(明治18)年、彌太郎の死去にともない「郵便汽船三菱会社」の第二代社長となり事業を継承。共同運輸との競争終結による日本郵船の発足にともない、翌年彌之助は海運事業を切り離し「三菱社」を発足させて事業の多角化をすすめます。90(明治23)年、松方蔵相に懇請された神田・丸の内の土地買取りを「国家のため」という三菱創業以来の理念により英断します。94(明治27)年「三菱合資会社」への改組を機に第一線を退き「監務」に就任。若くして新社長となった彌太郎の長男久彌を支えます。その後、96(明治29)年に第四代日銀総裁就任。1908(明治41)年、57歳で永眠します。

1865(慶応元)年、彌太郎の長男として土佐国の井ノ口村に生まれました。一家で東京に移った後、75(明治8)年に9歳で慶應義塾に入学し3年間福沢諭吉の薫陶を受けています。20歳の時に米国に渡り1年半後にペンシルベニア大学ウォートン・スクールに入学。財政学などの単位を取得し25歳で卒業します。91(明治24)年に帰国後「三菱社」に副社長として入社し、2年後「三菱合資会社」に改組した際に28歳で社長に就任、この年寧子(しずこ)と結婚。独立採算制を採用した近代的なマネジメントシステムを導入し、二本柱の鉱業と造船業を大きく発展させます。また上野―青森間の鉄道建設を始めとした私営鉄道事業への出資や米作、発電、水道事業などにも情熱を注ぎました_。さらに98(明治31)年に神戸製紙所(後に三菱製紙)を設立、1905(明治38)年には神戸造船所を開設します。また07(明治40)年には麒麟麦酒(キリンビール)の設立を支援しました。そして16(大正5)年50歳のときに社長を退任、従弟で副社長の小彌太に社長の座を譲ります。引退後は夢であった農牧事業を楽しみ、戦後は三菱の再興を見守った久彌。1955(昭和30)年、千葉県成田近くの末広農場の別邸にて90年の天寿を全うします。

1879(明治12)年、東京の駿河台で彌之助・早苗夫妻の長男として生まれました。17歳で第一高等学校に入学。99(明治32)年に一高を卒業後、東京帝国大学法科大学に入学しますが、在学1年で中退。翌年英国へ出発し、1902(明治35)年にケンブッリジ大学に入学します。06(明治39)年に極めて優秀な成績で卒業して帰国。「三菱合資会社」に入社し26歳で副社長となります。07(明治40)年に島津孝と結婚。16(大正5)年に36歳で社長就任。翌年、各事業部門を株式会社として独立させ、「三菱合資会社」を持株会社として統括する体制とします。20(大正9)年には第一次世界大戦の戦後反動不況の中、丸ビルの建築を決断し、23(大正12)年に竣工します。昭和金融恐慌など厳しい経済環境の中、29(昭和4)年に体調を崩し2年間休養しますが、復帰後の34(昭和9)年には小彌太の強い指導力で三菱造船と三菱航空機が合併し三菱重工業が誕生します。37(昭和12)年には「株式会社三菱社」と改組し純然たる持株会社とし取締役社長に就任。45(昭和20)年、終戦にともなうGHQの財閥解体に反対するも株式会社三菱本社の解散を発表、社長退任後66歳で亡くなります。

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