三菱広報委員会

協力/三菱史料館

   量産型EV(電気自動車)『i‐MiEV』の“生みの親”と呼ばれる人物がいる。吉田裕明だ。1978年、三菱自動車工業に入社し、岡崎工場(現・岡崎製作所)の研究部に配属される。電子制御サスペンションや4輪操舵システムなどの開発に専念していた。ところが、94年のある日、上司から空いた隣の席に座ってくれと告げられる。その席が、EV開発グループの後任の席だった。
「サスペンションやステアリングが専門で、電気のことなど全く知らない。とんでもない役を任されてしまったなと」
   当時、製造していたのは『リベロEV』と開発中の『三菱HEV』の2種。前者は鉛電池を搭載したEVで電力会社や自治体などに納入。後者は今でいうPHEV(プラグインハイブリッド)の改造版。しかし、前者には苦情が殺到していた。日によって航続距離が違い、そもそも航続距離が短すぎると。
「とても、一般販売できる代物ではない。問題は、かさばる上に性能もよくない鉛電池。そこで、パソコンなどに使用されているリチウムイオン電池に目を付け、大型化かつ容量も増やしてもらい、『三菱HEV』の試作品 が完成。95年末に、当時、排ガス規制が最も厳しかった米国に送った。ところが、年明け早々に一報が入る。車から火が出たと」
   鉛とリチウムでは電圧が異なり、鉛の方が電圧は高い。鉛の代わりに、そのままリチウムイオン電池を使ったため、過充電となり発火したのだ。吉田には、最悪の年となった。


研究開発完了のイベントとして
ギネスワールドレコードに挑戦

生き残った研究・開発部

   吉田は戦略の練り直しを図る。リチウムイオン電池を試作した三菱化学(現・三菱ケミカル)に安全性の高い電池材料、次いで過充電にならない安全装置を三菱電機に依頼。
「まるで4次元マップを作っているようなもの。それぞれ、業界の専門用語が違うため、言葉が通じない。もう、膝詰めで話し合うほかない。でも、この3年に及ぶ共同開発があったから、搭載電池の原型が出来上がった」
   だが、苦難は続く。2000年、同社はダイムラー・クライスラー社の傘下に入る。EV開発を言い出しにくい状況に陥った。
「ただ、バッテリー担当者を試作のEVに乗せたところ、いいクルマだ、あきらめてはいけないと。なんとか研究・開発部は残った」
   一方で、吉田は当時、開発中だったガソリン車の『i』を見ていた。あの車体なら、電池は納まり、完璧なEVになると。そして、04年、ダイムラー社が去り、本格的に『i‐MiEV』の開発が始まる。ただ、同社ではEVを一般市場に出すことに懐疑的な意見も残っていた。ようやく、社内論議が収まり、ゴーサインが出る。発売は、09年7月だった。
「どのような状況でも、信じること、続けること、それが夢につながる」(敬称略)