三菱広報委員会

三菱のDNA

以下のバックナンバーの記事内容は、掲載当時の情報です。
最新の情報とは異なる場合がありますので、予めご了承ください。
2015.11 vol.1

新境地を開いた自動車保険 [前編]

   組織人として、やりたいことをやれるチャンスはそう訪れない。その幸運を得た一人が、東京海上日動火災保険の星野明雄である。
   星野は、1997年10月、自動車業務部の 開発チームに異動になった。… 続きを読む≫

2015.12 vol.2

新境地を開いた自動車保険 [後編]

「自由化時代に、そんな商品がお客さまに受け入れられるか!」
   だが、星野は怯(ひる)まない。
「正しいことをやれば必ず理解されると確信していたので、経営陣から何度厳しい指摘を受けても、」… 続きを読む≫

2016.1 vol.3

電子レンジに対応する製品を

 三菱ガス化学が開発した『エージレス』。一般的に脱酸素剤と呼ばれ、密閉容器中の酸素を、ほぼ完璧に吸収し、食品の劣化を防ぐ。発売は昭和52(1977)年。今なお、トップシェアを誇るロングセラーである。その『エージレス』一筋に生きた研究員がいる。… 続きを読む≫

2016.2 vol.4

船舶用油清浄機トップへの挑戦

 1970年4月、三菱化工機に入社した木村呈が配属されたのは油清浄機(SJ)を担当する設計1課だった。SJは、船舶の燃料となるC重油から不純物を取り除く機械で、船舶には欠かせないものだ。しかし、当時、同社では収益の大きな柱とはなっておらず、新型の開発と売り上げの拡大に迫られていた。… 続きを読む≫

2016.3 vol.5

1500℃へのチャレンジ [前編]

 1994年8月11日、三菱重工業・高砂製作所・組立一課課長の前川篤は、124会議室に呼ばれる。その場で、部長から10月1日に発足するT建室の副室長を命じられた。
 T建室とはT地点建設推進室。また、T地点の正式名称は… 続きを読む≫

2016.4 vol.6

1500℃へのチャレンジ [後編]

 T地点建設推進室の副室長を命じられた前川篤は苦戦を強いられていた。1995年1月17日の阪神・淡路大震災の影響を受け、高砂製作所は鋼管杭施工など耐震性の高い実証設備への練り直しが急務だった。地域住民へ の説明会、高砂市や兵庫県による環境面における審査など、… 続きを読む≫

2016.5 vol.7

自分の耳を信じ、スピーカーひと筋

 三菱電機の高級スピーカー『ダイヤトーン』。その開発に約40年間携わり「ミスター・ダイヤトーン」と称えられた技術者がいる。佐伯多門だ。入社は昭和29(1954)年。
「学生時代にNHK松山放送局に見学に行った際、実にいい音が聞こえてきた。… 続きを読む≫

2016.6 vol.8

発想の転換が生んだ、大ヒット商品

『キリン 午後の紅茶』が発売されてから、今年で30周年を迎える。ペット容器入りの本格的な味わいの紅茶飲料として、飲料業界をアッと言わせた商品である。
 その開発に携わったのが、出内桂二。キリンビール鰍ノ1985(昭和60)年に入社するが、… 続きを読む≫

2016.7 vol.9

カード社会を見据えた、ある戦略

 半田純一がダイヤモンドクレジット梶i現・三菱UFJ ニコス)に入社したのは、1988年のことだ。翌年の89年、社名は潟fィーシーカードに変わる。
 半田の入社に先立つ82年、改正銀行法が施行され、… 続きを読む≫

2016.8 vol.10

品質への追求でトップシェアへ

 佐々木秀樹は1983年、三菱樹脂に入社。滋賀県の長浜工場で食品包装用の塩化ビニル(塩ビ)ラップの製造部門に配属された。80年代後半に入ると、環境に対する社会意識の高まりを背景に、三菱樹脂も業務用非塩ビラップの本格的な開発に着手。… 続きを読む≫

2016.9 vol.11

132年ぶりの商船大学の設立

 2004年の秋、橋正裕は日本郵船の宮原社長に同行し、フィリピンの首都マニラにいた。ビジネスパートナーであるトランスナショナル・ダイバーシファイド・グループとの合弁会社、NYKフィル・シップマネジメント社の15周年パーティーに出席するためだ。… 続きを読む≫

2016.10 vol.12

東海道新幹線をPCマクラギで支える

1964年10月10日、アジアで初となる東京オリンピックが開催された。日本は、この大会のために、東海道新幹線や東名・名神の高速道路の開通などインフラ整備を急いでいた。その東海道新幹線の建設に際し、文字通り下支えした技術者がいた。米田茂信である。… 続きを読む≫

2016.11 vol.13

きれい・はやい・つかいやすい

 後藤哲朗は自らを「電気屋」と呼ぶ。就職先に電機メーカーを選択するもかなわず、1973年、日本光学(現・ニコン)に入社する。配属先は、機器事業部だった。
「医療に使われる、赤外線映像装置などを製作。… 続きを読む≫

2016.12 vol.14

異業種間をまとめる苦労と達成感

 1999年、PFI法が施行された。PFIとはPrivate Finance Initiativeの略で、公共施設の設計、建設、維持管理・運営などに民間の資金とノウハウを活用するというもの。いわば、公共事業の民活化を決定づけたのである。そのPFI法の施行前から、PFIに興味を持っていた男がいる。… 続きを読む≫

2017.1 vol.15

赤字から核となるビジネスに成長

 シュガーエステルは、ショ糖(砂糖)と植物油由来の脂肪酸から作られる「食品用乳化剤」で、食品添加物として認められている。そのシュガーエステルをいち早く生産していたのが、三菱化成(現・三菱化学)だ。1974年には、三重県四日市工場にプラントを建設している。しかし、赤字続きだった。… 続きを読む≫

2017.2 vol.16

足でかせぐのが、研究・開発

 1983年、西川浩司は三菱倉庫に入社する。大阪支店に配属され、大阪港にある営業所で、鋼板や鉄板などの荷揚げ、仕分け、配送に従事。その後、国際部に移り、神戸港からナホトカ、シベリア鉄道を経由して欧州各国にコンテナを配送する業務に奔走する。… 続きを読む≫

2017.3 vol.17

センサのエキスパートの誕生

 三菱プレシジョンには、センサのエキスパートと呼ばれる人物がいる。安井訓だ。入社は1979年。鎌倉工場(現・鎌倉事業所)の精密機器課に配属され、ジャイロの設計に携わる。
「ジャイロとは角速度を測定し、回転や向きの変化を検知するセンサ。… 続きを読む≫

2017.4 vol.18

街づくりの拠点となるビル

 2002年9月6日、東京駅前に丸の内ビルディング(通称・丸ビル)がオープンした。降りしきる雨の中、14万人を超える人が詰めかけたといわれる。その丸ビルの完成に尽力したのが、小張貴史だ。入社は1987年。配属先は都市開発部。…
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2017.5 vol.19

1対1の膝詰め談判を3カ月

 国内住宅のガラスを変えた男がいる。AGC旭硝子の武田雅宏だ。入社は1982年。関西工場総務部、社長室広報課を経て、87年に仙台支店建材販売課に移り、ガラスの営業を担当することになった。「担当は住宅用の複層ガラス。2枚のガラスの間に乾燥した空気(内側で結露しないため)を入れ、… 続きを読む≫

2017.6 vol.20

使用量は3分の1、寿命は3倍

 三菱製紙の強みの一つに写真・印刷関連技術がある。山本京之介は1980年に、三菱製紙に入社。京都工場の研究部に配属される。時代はアナログからデジタルへ、大量消費からエコへ、社会意識の転換が始まっていた。
「入社後から銀塩写真技術を応用した印刷版製版システムの… 続きを読む≫

2017.7 vol.21

稼働直後のトラブルに、次々と対処

三菱連続製銅プロセスのスペシャリストがいる。三菱マテリアルの山城明義だ。1963年、瀬戸内海にある直島製錬所に入社。熔錬課に所属し、銅製錬の技術を身に付ける傍ら、製銅プロセスの勉学に励み、27歳の時に係員の試験に合格。連続製銅課に配属される。… 続きを読む≫

2017.8 vol.22

最初の会議で、クビを宣告されたが…

   三菱スペース・ソフトウエアに、システムインテグレーション(SI)のパイオニアと呼ばれる人物がいる。渡辺克昭だ。入社は1981年。宇宙事業を皮切りに、防衛関連の仕事に長く従事していた。
   93年、転機が訪れる。その年の12月に、同社は、… 続きを読む≫

2017.9 vol.23

言い出しっぺが、最後までやる

   米国へのトラック輸出を託された社員がいる。竹島茂和だ。1973年、三菱自動車工業に入社。トラック・バス開発本部(後の三菱ふそうトラック・バス)に在籍する。物流にトラックが欠かせないと、急速に認知され始めた頃である。そうした中、80年に竹島は職場で米国への進出を提案する。… 続きを読む≫