三菱広報委員会

協力/三菱史料館

   米国へのトラック輸出を託された社員がいる。竹島茂和だ。1973年、三菱自動車工業に入社。トラック・バス開発本部(後の三菱ふそうトラック・バス)に在籍する。物流にトラックが欠かせないと、急速に認知され始めた頃である。そうした中、80年に竹島は職場で米国への進出を提案する。
「言い出しっぺの若輩者を許容してくれる企業風土があったのは、ラッキーだった。その当時、弊社は欧州には進出していたが、米国は手つかず。車の排ガス規制が欧州基準となるのか、米国基準となるのか分からない状況でもあった。そこで、米国の排ガス規制をクリアできるスキルを身につけておきたい。また、トラックメーカーとして、米国でビジネスしていることが、後々、アジアや中南米へのプレゼンスとして役立つだろうと考えた」
   提案は認められ、83年1月に竹島は渡米。その年の3分の1は米国への出張となる。
「米国のトラックは前部が鼻のように出ているのに対し、日本のトラックは鼻がなく、のっぺりとした形。受け入れられるか、不安だった。ところが、弊社の4トン・2トン車での試走では、ドライバーからの評判は上々だった。鼻がなく全長が短いゆえに小回りが利く、前がよく見え運転しやすいと。ただ、そうした評価とトラックを購入してくれるかは別問題。そもそも、米国ではトラックがどういう役割を果たし、どのような業種に使われているのか。市場調査を行わないと、売れるかどうかも分からない」


テスト走行をコーディネートする竹島

700のサンプルを獲得

   少しずつ見えてくる。都市部と都市部を結ぶ幹線道路は大型トラックが疾走し配送を担う。次に各地域では中型・小型トラックが控え、荷物を届ける。中でも都市部は集荷・配送のネットワークは構築されているものの、道路は混雑し、道幅も狭い。竹島は、狙いを都市部の集荷・配送用に絞る。
「そこで業種に当たってみる。すると、芝刈りの業者、水道・ガス工事屋、そして宅配業者が群雄割拠。そこから、どうサンプルを集めるかが課題だった。一人で集められるものではないし、そもそも一人で集められるサンプル量など、たかが知れている。焦った」
   竹島は当時、提携先だった米国のメーカーを訪ね、どういう調査会社があるのか教えを請う。そして、信頼に値する調査会社から700ほどの調査票を得、日本に持ち帰った。経営陣からのゴーサインが出たのは、84年。
「その年から90年まで米国に駐在し、軌道に乗せるべく全米中を走り回った」
   この頃、年間3000台以上の三菱のトラックが米国に輸出された。もうひとつの目的の、米国でトラックを走らせているというプレゼンスは、同社のアジア・中南米への進出に貢献したことは言うまでもない。(敬称略)