協力/三菱史料館
   終戦後の日本は、物不足と激しいインフレに見舞われていた。政府は財政を健全化することなく、いち早く企業を復興させようと、返済のメドの立たない補助金や復興債を大量に流し続けていたのである。
   この不安定な経済状況に対し、GHQ(連合国総司令部)は、昭和24年(1949)経済顧問としてデトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジを日本に派遣。超均衡予算の実現、補助金などの打ち切り、復興金融金庫の新規支出の停止といった大胆な具体策を実行させた。併せて、自由主義貿易と輸出振興を名目に、複数の為替レートを改正し、1ドル=360円の単一為替レートを決定した。いわゆる「ドッジ・ライン」である。
   これにより、インフレは収束に向かったが、逆にデフレが進行し、失業や企業の倒産が相次ぐ結果となった。「ドッジ不況」または「安定不況」とも呼ばれている。
   ところが、翌年の昭和25年6月、朝鮮戦争が勃発する。武力で南下してくる北朝鮮軍が、韓国の首都ソウルを制圧。これに対し、米国軍を中心とした国連軍が参戦し、仁川上陸作戦後、38度線を越え北上する。昭和28年の休戦に至るまで、日本経済は戦後初の好景気に沸く。米国軍から日本への大量の物資発注があり、輸出量が急増したのだ。いわゆる「朝鮮特需」である。特に、鉱工業や繊維関連の生産が増大したことから「金へん景気・糸へん景気」とも呼ばれた。
   特需によるドル収入は、韓国、沖縄および内地関係の駐留米国軍支出のすべてを含めると、昭和25〜28年の4年間で24億ドルに達したといわれる。

特需に業績が一気に向上

   三菱鉱業は、特需という好況を成長に結びつけるため総力を挙げて奮闘した。石炭需要の足取りは予想以上に速く、同社の出炭計画は再三変更された。朝鮮戦争勃発の翌年、昭和26年度は当初500万tだったが、途中で530万tに変更。27年度は580万t、28年度は630万tと計画は膨張の一途をたどった。この時期に、併せて機械化のための設備投資を行い、高水準の採炭を実施、業績を一気に向上させた。
新光レイヨンの工場でも、朝鮮特需に乗り、工程設備の増設・更新・改造を行った
   新光レイヨン(現・三菱レイヨン)も、特需ブームに乗り、この時期に業績を飛躍的に伸ばしている。生産設備の拡張も著しく、特に化学繊維・綿紡績・レーヨンステープル紡績の増設が急ピッチで進む。綿紡は昭和25年に400万錘(すい)を超え、26年末には643万錘に、27年末には746万錘に達した。
   繊維業界全体では、生産は昭和24〜26年の間に総体で2倍以上。しかも、各繊維製品とも値上がり率は驚異的で、中でも化学繊維製品の価格は最高の上昇率だった。
参考資料/『国際政治経済辞典』川田侃・大畠英樹編、『三菱鉱業社史』、『30年史 三菱レイヨン株式会社』