三菱広報委員会

協力/三菱史料館

   昭和46年(1971)8月15日、米国のニクソン大統領が電撃的に新経済政策を発表。いわゆる「ニクソンショック」である。中でも衝撃的だったのが、米ドル金交換停止。それまで、日米間は1ドル=360円のレート。そのおかげもあって、日本の貿易収支は黒字だったが、「ニクソンショック」後、日を追って円高が進む。日本国内の輸出産業は深刻な打撃を受ける。三菱商事は「ニクソンショック」後の円ドルレートの変化によって、46年9月期に、為替差損14億円を計上している。
   昭和48年10月には、イスラエルと中東アラブ諸国の間に第4次中東戦争が勃発。そのあおりを受けて、3カ月後には原油価格が約4倍になった。これが、「第1次オイルショック」である。国内では消費者物価が急騰し、「狂乱物価」と呼ばれる中、売り惜しみや買いだめが激しくなり、トイレットペーパーをめぐり、ケガ人まで出る騒ぎとなった。この第4次中東戦争を機に、約20年続いた高度経済成長は終焉を迎えたのである。

不況下の中で、奮闘

   昭和48年から50年春にかけて戦後最大の不況が続く中、三菱自動車工業は積極果敢に打って出る。フルモデルチェンジした『ニューギャラン』はオイルショックの波をもろにかぶったが、開発の手を止めず、51年5月に満を持して『ギャランΣ(シグマ)』を発売。同年12月に『ギャランΛ(ラムダ)』を登場させた。
   その影響は旭硝子にも及ぶ。三菱自動車工業から両サイドが深く曲がったリアガラスの試作を受け、困難の末、量産化のメドをつけた。『ギャランΛ』とともに旭硝子のリアガラスの斬新なデザインは大きな話題を呼んだ。
   日本経済は昭和53年度後半から回復に向かうが、イラン革命による混乱で原油生産がストップし、原油価格が急騰。これが、「第2次オイルショック」である。ただ、備蓄・省エネの対応が進んでいたこともあり、先進諸国の受けたダメージは第1次より少なかった。
   昭和60年9月、米国政府は今までの為替レートへの不介入方針を改め、貿易不均衡には通貨調整が必要と表明。これに基づき、先進国5カ国はドル高是正のために協調介入する。いわゆる「プラザ合意」だ。結果、急激な円高に見舞われ、日本経済は多大な影響を受ける。この時期から、貿易摩擦の回避と現地国との国産化ニーズへの対応を踏まえ、製造業の海外進出が相次ぐようになる。


『ギャランΛ』に使用された旭硝子の
複曲面リアガラス


   昭和62年10月19日、ニューヨーク株式市場が大暴落する「ブラックマンデー」が発生。日経平均株価はいったん下がるものの、株式ブームは過熱。このマネーゲームが後のバブル崩壊を導くことになる。そして、迎えた64年1月7日、病気療養されていた昭和天皇が崩御された。昭和が終わったのである。(了)

参考資料/『三菱商事50年史』『三菱自動車工業株式会社史』『旭硝子100年の歩み』『昭和経済史』中村隆英