三菱広報委員会

三菱の戦後

以下のバックナンバーの記事内容は、掲載当時の情報です。
最新の情報とは異なる場合がありますので、予めご了承ください。
2013.4 vol.1

昭和編 第1回 財閥解体@

昭和20年(1945)8月、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。9月22日には、ポツダム宣言に謳われた「経済民主化」のスローガンに基づき、アメリカ政府が初期の対日占領方針「日本の商業および生産上の大部分を支配してきた産業上および金融上の大コンビネーションの解体を促進」を発表する。すなわち、財閥解体だ。…
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2013.5 vol.2

昭和編 第2回 財閥解体A

GHQ(連合国総司令部)は、矢継ぎ早に手を打ってくる。昭和20年(1945)11月6日の四大財閥解体指令に先立つ10月22日には、15財閥に対し、事業内容や資本構成に関する詳細報告の提出命令が出されている。さらに、12月には、財閥関連の子会社336社の資産が凍結された。こうした会社は制限会社として規定され… 続きを読む≫

2013.6 vol.3

昭和編 第3回 財閥解体B

昭和20年(1945)11月24日、財閥解体の準備措置として「会社の解散の制限等に関する勅令」いわゆる制限会社令が施行された。前号に、三菱関連で制限会社に指定されたのは、総計38社にのぼったと記した。そのうちの1社が三菱銀行である。終戦後の日本経済は激しいインフレーションに見舞われ、政府が次々と金融に関する措置令を出すなか…
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2013.7 vol.4

昭和編 第4回 財閥解体C

三菱重工業は昭和21年(1946)3月に、GHQ(連合国総司令部)の指令で公布された会社制限令に基づき、制限会社に指定される。同年12月には、持株会社整理委員会(持株委)から会社の解散を求められる第三次指定を受ける。三菱重工は、企業分割を巡って、紆余(うよ)曲折の道を歩み始める。… 続きを読む≫

2013.8 vol.5

昭和編 第5回 財閥解体D

国内の炭坑・鉱山を所有していた三菱鉱業も、持株会社整理委員会(持株委)から昭和21年(1946)12月に、解散を命ずる第三次指定を受けた。同社は、第2会社を分離独立させる形式で石炭、金属の2会社に分割する方針を決定する。しかし、GHQ(連合国総司令部)は2分割案を容認せず、昭和22年6月に7分割案を非公式に指示してきた。… 続きを読む≫

2013.9 vol.6

昭和編 第6回 朝鮮特需と再結集@

終戦後の日本は、物不足と激しいインフレに見舞われていた。政府は財政を健全化することなく、いち早く企業を復興させようと、返済のメドの立たない補助金や復興債を大量に流し続けていたのである。
この不安定な経済状況に対し、GHQ(連合国総司令部)は、昭和24年(1949)経済顧問として… 続きを読む≫

2013.10 vol.7

昭和編 第7回 朝鮮特需と再結集A

産業界が朝鮮特需に沸く最中、昭和26年(1951)9月8日、サンフランシスコにおいて対日講話条約・日米安全保障条約が調印され、翌27年4月28日に発効された。6年余に及ぶ占領体制が終結したのである。同年4月には財閥の商標、5月には財閥の商号についての使用禁止令が解除された。… 続きを読む≫

2013.11 vol.8

昭和編 第8回 朝鮮特需と再結集B

昭和22年(1947)に解散した旧三菱商事。その後、解散命令に準拠してできた“新会社”は、160社を超えた。当時を振り返り、現三菱商事の初代社長・高垣勝次郎は次のように述べている。
「これらの“新会社”が旧商事より受けた遺産は物的には一つもなく、単に訓練と無形の人的信用のみであり…
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2013.12 vol.9

昭和編 第9回 朝鮮特需と再結集C

三菱重工業は昭和25年(1950)1月に、東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業の3社に分割され、新たなスタートを切った。 東日本重工業の発足当初における基本方針は、船舶部門を軸として経営の基礎を固め、自動車部門と造機部門(建設機械を含む)を発展させることだった。… 続きを読む≫

2014.1 vol.10

昭和編 第10回 高度経済成長@

「もはや戦後ではない」。昭和31年(1956)経済企画庁の『経済白書』に登場する有名なフレーズだ。
   実は、このフレーズは英文学者であり評論家の中野好夫が『文藝春秋』(1956年2月号)に寄稿した評論のタイトル「もはや『戦後』ではない」から引用したものである。中野と白書が言わんとするところに多少のズレはあったが…
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2014.2 vol.11

昭和編 第11回 高度経済成長A

昭和30年代に急速に普及した冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビの「三種の神器」は、現代からは想像のつかない代物だ。
冷蔵庫はワンドアで、初期のものには冷凍庫は付いていない。洗濯機は洗濯槽がガタガタ回るだけで、脱水は洗濯機の上部に付いた絞り器で、手で回すローラー式だった。… 続きを読む≫

2014.3 vol.12

昭和編 第12回 高度経済成長B

高度経済成長期には、さまざまな革命が起きる。そのひとつが、エネルギー革命。つまり、石炭から石油へという大転換である。
昭和25年(1950)頃までは、石炭は工業・鉄道・都市で使用される最大のエネルギー源だった。しかし、その後60年代にかけて、石炭産業は急速に衰え始める。… 続きを読む≫

2014.4 vol.13

昭和編 第13回 高度経済成長C

 昭和30年(1955)から32年6月まで続いた「神武景気」。34年から36年まで「投資が投資を呼ぶ」といわれた「岩戸景気」。それらの好景況期に、飛躍的に業績を伸ばした企業がある。三菱化工機だ。10年に化工機製作として設立され、13年に三菱化工機と社名変更した同社は戦争の痛手に苦しみ、企業再建整備法に基づき、24年に再スタートを切った。… 続きを読む≫

2014.5 vol.14

昭和編 第14回 高度経済成長D

高度経済成長期の最中、昭和39年(1964)10月10日に東京オリンピックが開催された。アジアで開かれる最初の五輪で、93の国・地域が参加し、20競技163種目が行われた。
日本は16の金メダルを獲得し、米国、旧ソ連に次いで3位だった。… 続きを読む≫

2014.6 vol.15

昭和編 第15回 高度経済成長E

 高度経済成長期に、三菱を冠した企業が相次いで誕生している。昭和37年(1962)に設立された三菱プレシジョンが、そのひとつ。発端は米国GPI社(General Precision Inc.)の東京駐在員の訪問だった。
昭和34年5月のある日、GPI社のデビッドソン駐在員が、日本航空へのドプラ航法装置の売り込みに見切りをつけ、当時、世田谷にあった三菱電機の東京工場を訪ねてきた。 … 続きを読む≫

2014.7 vol.16

昭和編 第16回 高度経済成長F

 前回に引き続き、高度経済成長期に誕生した三菱の企業を紹介する。まずは、三菱自動車工業。設立は、昭和45年(1970)である。もとは、三菱重工業の自動車事業部門だった。分離について本格的に検討が開始されたのは、昭和43年。「自動車部門分離委員会」が設置され、新会社についての構想がいくつか検討された。その一つは、三菱重工業を自動車部門とその他の部門と二つの会社とする会社分離構想。 … 続きを読む≫

2014.8 vol.17

昭和編 第17回 高度経済成長G

 高度経済成長の末期、すなわち「いざなぎ景気」が終わろうとしていた昭和45年(1970)、大阪・千里で日本万国博覧会が開催された。略称『EXPO’70』、東京オリンピック同様アジアで初めて開催された国際博覧会である。この国家的事業に投じられた資金は、1兆円にのぼったといわれる。 … 続きを読む≫

2014.10 vol.18

昭和編 第18回 ニクソンショック

ここで、おさらいをしておこう。日本経済は昭和30年頃から好景気に沸く。国際収支の大幅改善と物価の安定がもたらした「数量景気」。。その好景気は「神武景気」に引き継がれる。いったん「ナベ底不況」に見舞われるが、回復は早く、昭和34年から36年まで … 続きを読む≫

2014.11 vol.19

昭和編 第19回 オイルショック@

 昭和46年(1971)8月15日の「ニクソンショック」に先立つ同年7月に、米政府はニクソン大統領が中国を訪問すると発表。実際、翌年2月に訪中を果たしている。国際政治・国際経済が大きな転換点を迎えた。
 こうした米中接近の動きに、日本の政財界は敏感に反応。 … 続きを読む≫

2014.12 vol.20

昭和編 第20回 オイルショックA

 第1次オイルショックの影響で、昭和49年(1974)の日本経済は戦後初のマイナス成長となった。その後も成長率は高度経済成長期の半分以下となり、昭和50年春頃まで低成長が続く。「戦後最大の不況」が訪れていた。
 こうした中、企業は減量経営を強いられ、低成長時代に対応した事業体制の再構築を迫られる。 … 続きを読む≫

2015.1 vol.21

昭和編 第21回 オイルショックB

 昭和48年(1973)から50年春にかけての戦後最大の不況下で開発し、51年に『ギャランΣ』と『ギャランΛ』を発売した三菱自動車工業。その影響は旭硝子にも及ぶ。同年1月に、三菱自動車工業から両サイドが深く曲がったリアガラスの試作要請を受けたのだ。 … 続きを読む≫

2015.2 vol.22

昭和編 第22回 プラザ合意と経済@

 昭和55年(1980)に入ると、戦後繁栄の牽引車であった米国経済にブレーキがかかり、マイナス成長を記録する。また、非産油発展途上国においては、第2次オイルショックなどにより深刻な不況と累積債務の増大を招いた。こうして、昭和55年から57年までは「世界同時不況」といわれたが、 … 続きを読む≫

2015.3 vol.23

昭和編 第23回 プラザ合意と経済A

昭和60年(1985)9月の「プラザ合意」後、急激な円高が進み、製造業中心の三菱各社の海外進出が相次いだ。
製造業だけではない。三菱商事は海外市場をにらみ、世界各国にある拠点の体制強化に踏み出す。カナダ三菱商事は1965年の発足以来 … 続きを読む≫

2015.4 vol.24

昭和編 第24回 プラザ合意と経済B

 昭和54年(1979)の第2次オイルショック、60年の「プラザ合意」と国内経済規模が縮小する中、製品の開発に挑んだのは、前号で紹介したキリンビールだけではない。
 三菱重工のH-Tロケットは研究着手以来、紆余曲折もあったが、56年から実機の開発を始める。 … 続きを読む≫

2015.5 vol.25

昭和編 第25回 番外編

 大手企業が週休2日制を導入したのが、昭和30年代である。その先駆けとなったのが、三菱電機だ。
 昭和37年(1962)秋の朝日新聞に、次のような見出しが並ぶ。《第一、第三土曜は休み/三菱電機 明春から》《各業界“成果”を注目》。 … 続きを読む≫

2015.6 vol.26

昭和編 第26回 総集編@ 財閥解体

 昭和20年(1945)8月、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。翌月からGHQ(連合国総司令部)による財閥解体が始まった。
 同年11月、三井、三菱、住友、安田の4財閥に解体指令。12月には、 … 続きを読む≫

2015.7 vol.27

昭和編 第27回 総集編A 朝鮮特需と再結集

 終戦後の日本は、物不足と激しいインフレに見舞われていた。その不安定な経済状況に対し昭和24(1949)年、GHQ(連 合国総司令部)は超均衡予算の実現、復興金融金庫の新規支出の停止など大胆な具体策を実行させた。併せて、自由主義貿易と輸出振興を名目に、 … 続きを読む≫

2015.8 vol.28

昭和編 第28回 総集編B 高度経済成長1

 昭和31年(1956)経済企画庁の『経済白書』に、有名なフレーズ「もはや戦後ではない」が登場する。一般に、敗戦後の経済復興の苦難からの決別と受け止められている。
 実際、昭和30年頃から日本経済は好景気に沸く。国際収支の大幅改善と物価の安定が … 続きを読む≫

2015.9 vol.29

昭和編 第29回 総集編C 高度経済成長2

 高度経済成長期には、ビッグイベントがふたつあった。ひとつは、昭和39年(1964)10月10日から開催された東京オリンピック。アジアで開かれた最初の五輪で、93の国・地域が参加し、20競技163種目が行われた。
 日本は、この東京オリンピックのために総工費159億円を … 続きを読む≫

2015.10 vol.30

昭和編 第30回 総集編D 3つのショックと昭和の終わり

 昭和46年(1971)8月15日、米国のニクソン大統領が電撃的に新経済政策を発表。いわゆる「ニクソンショック」である。中でも衝撃的だったのが、米ドル金交換停止。それまで、日米間は1ドル=360円のレート。そのおかげもあって、日本の貿易収支は黒字だったが、 … 続きを読む≫