「三菱らしい判断」とか「いかにも三菱的」とかいわれたりする。定義はないが誰もが納得してしまう不思議なもの、それが「社風」である。
三菱の源流は、明治3年(1870)に大阪で発足した海運会社「九十九(つくも)商会」にある。高知藩の藩営事業を継承したもので、西長堀の藩邸に本社を置き、航路を全国に広げていった。
世は明治とはいえ、創業者岩崎彌太郎は武士の末裔。戦国武将を理想とし、九十九商会のちに改め三菱の、常に陣頭に立って指揮を執った。
武士は義を旨とする。三菱を率いた岩崎家の当主は四代に亘ったが、一貫して心にあったものは、「義」である。大義の義、忠義の義。正義の義、信義の義。この義ゆえに「国あっての三菱」「社会あっての三菱」という概念が形成され、三菱の判断の基準になった。経済合理性は次に来る。
三菱の事業は、海運から鉱業・重工業へと拡大し、組織も巨大化していったが、三菱は「岩崎家の事業」であり続けた。重要な指揮命令は、すべて当主岩崎社長によって明快に出され、社員は迷わず従った。
三菱らしい、首尾一貫した展開だった。
それを、独裁だ、前近代的だと、渋沢栄一などは批判したが、その独裁者の情熱的で迅速な決断こそが、近代日本における三菱の、飛躍的発展を可能にしたのだった。
呉服商・両替商が起源の三井や、薬屋・銅精錬が発祥の住友は、根が商業資本で諸般スマートだった。江戸時代に資本と経営の分離を実現していた。お家の人は書画骨董や茶の湯など文化の世界を大切にし、経営はビジネスのプロである番頭に任せた。番頭は従業員から選抜された逸材。ピラミッド型組織の頂点に立ち、冷静に経済合理性を追求した。
三菱は、三井や住友とは違う。三菱の歴史には、思わず唸る経営判断や人間味溢れる逸話が多い。それらが重なりあって三菱の社風を醸成した。本シリーズでは、その社風醸成の過程を検証していく。
高知県安芸市に岩崎彌太郎の生家がある。庭に三本の楠。これから何十年も何百年も生き、やがては千年楠となるだろう。その楠の葉が揺れる。目には見えないが、風がある。
社風は風のようなものだ。目には見えないが、間違いなく、ある。
成田誠一(なりた・せいいち)
三菱史アナリスト。「マンスリーみつびし」に連載した「岩崎彌太郎物語」「岩崎彌之助物語」「三菱史紀行」はホームページでご覧いただけます。