明治改元は1868年。近代国家への一里塚。明治維新はさまざまな段階を経て結実していく。
明治2年、版籍奉還。土佐は高知藩となり藩主は知藩事に。まだ憲法も国会もない。中央政府は藩代表が藩益のために権謀術数をめぐらす場。薩長は、藩営事業を禁止し、土佐の海運と貿易を封じる策に出る。高知藩は急きょ私企業の形で九十九(つくも)商会を設立して営業譲渡、大阪藩邸の責任者である岩崎彌太郎に商会の監督をさせる。彌太郎は、土佐屋善兵衛の別名を使い要所要所で実務を取り仕切る。
明治4年、廃藩置県が断行される。高知藩は高知県に。実質藩営だった九十九商会の閉鎖が検討されたが、土佐にとって大阪への航路は生命線。至急完全民営化を果たし、存続させたい。高知県の実質ナンバー1である大参事の林有造は、彌太郎に期待する。「岩崎よ、九十九商会を頼む。土佐のためだ」。しかし、彌太郎は社会変革の中で、官途に就くか事業に生きるか、自分の将来をまだ決めかねていた。
九十九商会の運営は、実務に精通している彌太郎にやらせるのが一番。林は説得を続ける。「大阪への航路さえ継続すればいい。商会はそっくりおまえに与えよう。貸与した船舶も好きなように使え」。
大参事にそこまで言われては腹をくくらざるを得ない。
「岩崎彌太郎、九十九商会の件、承知 仕(つかまつ)りました。土佐のため、一意専心努力いたします」。かくして九十九商会は、彌太郎個人の商会になる。
翌5年、藩営のイメージの残る九十九商会の名称を、幹部3人の名にちなんだ三川(みつかわ)商会に改める。さらに6年には「三菱商会」を名乗り、彌太郎が社主であることを内外に宣言した。“三菱”は九十九商会の船旗の細長い三つの菱からの命名だが、三つの菱は形こそ違え、岩崎家の紋でもある。
あとは怒涛の勢い。誰にも止めることはできない。7年には本社を東京に移転。台湾出兵ではすべてをなげうって軍事輸送にあたる。強烈な個性で三菱を率いる岩崎彌太郎。「藩のため」という信念は、いつしか「国のため」となる。政府の信頼を勝ち得た三菱は、さまざまな助成を受けて発展していく。
8年に三菱汽船会社規則が制定された。第一条にいわく、「会社に関する一切のこと…すべて社長の特裁を仰ぐべし」。規則というより、彌太郎の今更ながらの独裁宣言である。
成田誠一(なりた・せいいち)
三菱史アナリスト。「マンスリーみつびし」に連載した「岩崎彌太郎物語」「岩崎彌之助物語」「三菱史紀行」はホームページでご覧いただけます。