近代日本の写真に必ず写っている電柱。街なかや近郊に立てられ、街道筋では松並木が代用された。デンシンバシラ。デンキバシラとはいわない。明治早々に全国に張り巡らされた電線は、電気のためではなく電信のためだった。
明治10年(1877)の西南戦争。不平士族を代弁してやむなく立ち上がった西郷隆盛。第一陣は2月16日、
60年ぶりの大雪の中を熊本へ発った。迎える政府軍は、明治政府の存亡をかけてこれを制圧しなければならない。たとえ兄弟や竹馬の友がいようとも、である。
高知では岩崎彌太郎にとって大恩のある林有造ら自由民権論者が、西郷とともに蜂起することを画策し、「三菱の船を土佐に廻せ」と迫る。
国家への貢献を信条とする彌太郎はぶれない。社員に「大義のあるところをわきまえ、軍事の輸送に励むべし」と檄を飛ばし、全国の三菱の社船38隻を投入して、政府軍の兵員や武器、弾薬の輸送にあたる。
政府軍の迅速な作戦を可能にしたのは「ツートン、ツートン…」の電信である。西郷軍が熊本に迫ると、政府軍は鎮台兵営に電信線を架設した。西郷軍はこれを切断し通信を遮断しようとする。架設、切断、架設、切断の応酬。だが、順調に弾薬が補給される政府軍の前に、西郷軍は所詮蟷螂(とうろう)の斧。弾薬が尽きて刀を手に突撃するというのでは、勝敗は明らかである。
西郷は半年余り九州各地を転戦した末に、錦江湾を見下ろす城山にたどり着く。そして9月24日の早暁、政府軍の総攻撃に、「晋どん、もうここいらでよか…」と、
別府晋介に介錯させて果てる。
城山一帯の銃声が止んだ。町は静まり返る。やがて、あわただしく人の往来が始まる。郵便汽船三菱会社の鹿児島支店から、配船の指揮を執る神戸支店に宛てて電信が発せられた。「細島大佐ヨリ左ノ通リ申シ来タル。取リ敢エズゴ報告ニ及ブ。今暁ヨリ攻撃、午前九時三十分平定。西郷、桐野、村田三人ノ死骸ヲ見タリト報知アリ」。
双方で1万人以上の死者を出して、内戦は終わった。武士という特権階級は完全になくなり、以後日本は「富国強兵」「殖産興業」の旗印の下、近代化に邁進(まいしん)することになる。
西南戦争の軍事輸送で財政的基盤を確立した三菱は、あちこちで広大な土地を購入する一方、炭鉱や金属鉱山、造船所といった基幹産業に集中的に投資し、やがて三井や住友と肩を並べる産業資本に成長していく。
まさに社会の変わり目だった。だからこそ、彌太郎は西郷に同調せんとする同郷の士族たちへの配船を拒否しながら、「船が盗まれるのは自分の知ったことではない」と呟いた。泣いて馬謖(ばしょく)を斬る思いだったのだ。
一方、未遂ながら首謀者として捕らえられた林有造は、取り調べで板垣退助や後藤象二郎のことを糺(ただ)され、「そりゃ、誰だ?」ととぼけ通し、禁固10年の判決を受けた。武士の美学は健在だった。
成田誠一(なりた・せいいち)
三菱史アナリスト。「マンスリーみつびし」に連載した「岩崎彌太郎物語」「岩崎彌之助物語」「三菱史紀行」はホームページでご覧いただけます。