三菱広報委員会

千年くすのき

以下のバックナンバーの記事内容は、掲載当時の情報です。
最新の情報とは異なる場合がありますので、予めご了承ください。
2008.4 vol.1

千年くすのき-1

「三菱らしい判断」とか「いかにも三菱的」とかいわれたりする。定義はないが誰もが納得してしまう不思議なもの、それが「社風」である。
三菱の源流は、明治3年(1870)に大阪で発足した海運会社「九十九(つくも)商会」にある。… 続きを読む≫

2008.5 vol.2

千年くすのき-2

社会の変革期には出自よりも才覚が物を言う。下積みの人がみるみる権力の頂点に上り詰めたり、貧者が一夜で億万長者になることもある。
140年前の日本。幕末維新の血で血を洗う日々はようやく終息し、近代国家への道を歩み出した。… 続きを読む≫

2008.6 vol.3

千年くすのき-3

明治改元は1868年。近代国家への一里塚。明治維新はさまざまな段階を経て結実していく。
明治2年、版籍奉還。土佐は高知藩となり藩主は知藩事に。まだ憲法も国会もない。中央政府は藩代表が藩益のために権謀術数をめぐらす場。… 続きを読む≫

2008.7 vol.4

千年くすのき-4

明治初期、日本の近海は、主要な国内航路も含めて、米英の海運会社に牛耳られていた。
彼我の所有船舶の差は明白で、政府ですら明治7年(1874)の台湾出兵においては米英の海運会社に軍事輸送を委託するつもりでいた。ところが、直前になって局外中立を理由に断られてしまう。… 続きを読む≫

2008.8 vol.5

千年くすのき-5

近代日本の写真に必ず写っている電柱。街なかや近郊に立てられ、街道筋では松並木が代用された。デンシンバシラ。デンキバシラとはいわない。明治早々に全国に張り巡らされた電線は、電気のためではなく電信のためだった。…
続きを読む≫

2008.9 vol.6

千年くすのき-6

「酒は大いに飲むべし。酔うべからず。酒に酔い乱に及ぶ弱卒は用いるに足らず」と岩崎彌太郎は吉川泰二郎(のち日本郵船社長)に語ったという。
長崎以来、宴会を得意としてきた彌太郎らしい言葉だ。酒は人と人が親しくなるため、… 続きを読む≫

2008.10 vol.7

千年くすのき-7

明治10年(1877)の西南戦争の後の数年は、岩崎彌太郎の生涯で最も輝いていた時期だった。三菱は国家とともにあり、彌太郎は理想に燃えていた。
従業員は当初土佐藩の関係者が多かったが、荘田平五郎をはじめとして… 続きを読む≫

2008.11 vol.8

千年くすのき-8

屋上の露天風呂に入って太平洋を眺めていると壮大な気分になる。特に朝日の昇るときがいい。ホテル「ニューさがみや」、熱海伊豆山にある。
今は近代的なホテルになってしまったが、元は江戸時代から続いた老舗旅館「相模屋」。… 続きを読む≫

2008.12 vol.9

千年くすのき-9

共同運輸とのダンピング合戦の真っ只中、死んでも死に切れぬ思いで岩崎彌太郎がこの世を去ったことは前号に記した。今号はその彌太郎最後のビジネス戦争、日本郵船誕生の経緯を紹介する。… 続きを読む≫

2009.1 vol.10

千年くすのき-10

岩崎彌太郎の後を継いだ彌之助は、国内派のイメージが強いが、実は若くして米国で学んでいる。それも、彼らの懐に飛び込むような形で。
幕末の長崎。フランス人神父の前に隠れキリシタンが出現し、「信徒発見!」… 続きを読む≫

2009.2 vol.11

千年くすのき-11

明治18年(1885)、岩崎彌之助は海運部門をライバルの共同運輸と合併させることに同意、日本郵船が誕生した。同社の船舶の煙突や旗に描かれている白地に赤い二本の線は三菱と共同の二社を表している。… 続きを読む≫

2009.3 vol.12

千年くすのき-12

西郷隆盛と勝海舟の会談で江戸は火の海にならずにすんだ。江戸城明け渡し。東京遷都。皇居周辺から大名が立ち退き、軍や新しくできた役所が入った。例えば丸の内に、近衛騎兵隊、鎮台砲兵第一大隊、輜重兵営、陸軍省、内務省などなど。… 続きを読む≫

2009.4 vol.13

千年くすのき-13

明治政府にとって近代的金融制度の確立は急務だった。明治15年(1882)、政府の55%出資に加え、三井・鴻池・住友など当時の有力財界人も多数出資して日本銀行が設立された。… 続きを読む≫

2009.5 vol.14

千年くすのき-14

後継者の育成は難しい。特に「会社の体をなすといえども、その実まったく一家の事業にして…」(三菱汽船会社規則)というようなワンマンカンパニーでは難しい。“おぼっちゃま”を周囲の大人がちやほやして駄目にしてしまうからだ。…
続きを読む≫

2009.6 vol.15

千年くすのき-15

三菱第三代社長の岩崎久彌は「温厚な紳士」だったという。だがそれだけで、事業意欲旺盛で、勢いのある三菱を統率できただろうか。
明治26年(1893)に商法会社編が施行され、三菱は合資会社になる。… 続きを読む≫

2009.7 vol.16

千年くすのき-16

「後世に遺す最も価値あるものは、人それぞれの高尚な生涯です」と内村鑑三は語ると、唐突に「三菱は今日まで何をしたか。これから善い事業をすると信じておりますが…」と言って聴衆の笑いを誘った。明治27年(1894)、箱根での有名な『後世への最大遺物』と題する講演でのことだ。… 続きを読む≫

2009.8 vol.17

千年くすのき-17

第三代社長岩崎久彌は、若き日に米国に留学し経営学や会計学を学んだが、大量に持ち帰った書籍の中で一番多かったのは農作物と牧畜に関するものだった。根っから農牧が趣味の人なのである。… 続きを読む≫

2009.9 vol.18

千年くすのき-18

第一次世界大戦が勃発すると欧州製品がアジアに来なくなり、日本はにわかに景気が良くなった。
 その好景気の中で、久彌は三菱合資会社の社長の座を36歳になる従弟の小彌太に譲った。大正5年(1916)の夏だった。… 続きを読む≫

2009.10 vol.19

千年くすのき-19

分系会社の社員にとって、親会社である三菱合資会社の岩崎小彌太社長は、雲の上の存在だった。
第一次世界大戦が終結しヨーロッパ諸国が復興すると、日本は輸出減少・輸入増加に転じ、大正9年(1920)3月には株価が大暴落、多くの企業が倒産した。… 続きを読む≫

2009.11 vol.20

千年くすのき-20

海運会社からスタートした三菱は、時代を反映して主役が何度か交代してきたが、小彌太社長の時代の三菱の発展の主役は重工業だったといっていいだろう。… 続きを読む≫

2009.12 vol.21

千年くすのき-21

昭和13年(1938)ごろから、国家総動員法、国民徴用令、奢侈品(しゃしひん)等製造販売規則などが続々と実施され、さらに労働総同盟の解散、大日本産業報国会の設立と、世の中は戦時体制に傾斜していった。… 続きを読む≫

2010.1 vol.22

千年くすのき-22

昭和20年(1945)8月15日、日本は無条件降伏してGHQ(連合国司令部)の占領管理下に入る。財閥解体、農地解放、労働改革を柱とする「経済の民主化」が推し進められた。… 続きを読む≫

2010.2 vol.23

千年くすのき-23

昭和20年(1945)、終戦。厚木に降り立ったマッカーサーは、日本を総合的に弱体化し二度と戦争を起こせない国にする作業に着手した。まず財閥がターゲットとされ、三菱本社が「自主的」解散に追い込まれていった経緯は先月書いた。… 続きを読む≫

2010.3 最終回

千年くすのき-最終回

三菱史ノートの最終回にあたり、未来への伝言として、三菱のさまざまな遺産について記したい。  三菱の遺産の最大のものは、誰が何といっても精神遺産である。三菱らしさ、三菱ならではの判断、三綱領の精神、三菱の社風…
続きを読む≫

千年くすのき-番外編1

三菱史ノートの最終回にあたり、未来への伝言として、三菱のさまざまな遺産について記したい。
三菱の遺産の最大のものは、誰が何といっても精神遺産である。… 続きを読む≫

千年くすのき-番外編2

星に願いを、って柄ではないが、江戸遊学に出発する岩崎彌太郎は、その朝暗いうちに起きて妙見山の頂(いただき)にある星神社に詣でた。勉強して、勉強して、勉強して、必ず人の上に立ってやる。「吾れ志を得ずんば、再びこの山に登らず」と門扉に墨書した。… 続きを読む≫

千年くすのき-番外編3

東京・湯島の「旧岩崎邸庭園」は、NHK大河ドラマの影響でにわかに入園者が増えた。本郷台地の東端にあるこの土地は、もともと徳川家康が「徳川四天王」のひとり、榊原康政に与えたもので、高田藩の中屋敷となり、伊達政宗のいる東北の方に睨みを利かせた。… 続きを読む≫

千年くすのき-番外編4

社会の急激な変化は混乱をともなう。西南戦争もそうだ。明治10年(1877)6月、薩軍が臼杵(うすき)に侵入してきた。大分県の小さな城下町。… 続きを読む≫