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「マンスリーみつびし」創業150周年関連記事

特集
三菱創業150年
三菱の戦後Ⅰ
—終戦と財閥解体—

三菱広報委員会「マンスリーみつびし」より 写真提供/三菱史料館 参考図書/『三菱財閥史』三島康雄著、『財閥解体』梅津和郎著、
『岩崎小彌太傳』岩崎家伝記刊行会編纂、『三菱商事社史』

昭和20年8月、日本は無条件降伏して第二次世界大戦が終わった。
直後に米国政府による対日占領政策が実施される。三菱は苦難の道を歩むことに。

1945(昭和20)年8月、日本はポツダム宣言を受諾し、連合国に無条件降伏した。第二次世界大戦が終わったのである。

同年9月22日には、ポツダム宣言に謳われた経済の民主化に基づき、米国政府が初期の対日占領方針「日本の商業および生産上の大部分を支配してきた産業上および金融上の大コンビネーションの解体を促進」を発表。すなわち、財閥解体である。

発表を受けたGHQ(連合国総司令部)では、経済科学局局長・クレーマー大佐により、解体すべき財閥が三井、三菱、住友、安田の4財閥に絞られる。

同年9月25日、クレーマー大佐が非公式に三菱本社を来訪し、田中完三・三菱商事社長と会見。三菱本社の自発的な解体を要求した。田中は当時、熱海の別邸で病気療養中の岩崎小彌太・三菱本社社長に報告。小彌太は、三菱本社が解体しなければならない理由は何もないと、GHQの要求を受け入れなかった。

《総司令部は財閥は過去を反省して自発的に解散せよというが、三菱は国家社会に対する不信行為は未だかつて為した覚えはなく、また軍部官僚と結んで戦争を挑発したこともない。国策の命ずるところに従い、国民として為すべき当然の義務に全力を尽くしたのであって、顧みて恥ずべき何ものもない。いわんや三菱は社会に公開され1万3000名の株主を擁している。自分は会社に参加せられた株主各位の信頼に背き自発的に解散することは信義の上からも断じて為し得ない》(『岩崎小彌太傳』)

辞世の句に託された悲愴な心境

四代 岩崎小彌太(いわさき・こやた)

1879~1945年(明治12年~昭和20年)。1916(大正5)年、四代社長に就任

しかし、同年10月15日に、クレーマー大佐は新たな声明を発表し、財閥を解体する方針を強硬に打ち出す。この圧力により、その3日後に、まず安田保善社が自発的解散を表明。次いで、三井本社、住友本社も自発的解体を決定した。

留守を預かっていた船田一雄・三菱本社理事長は、もはやこれまでと財閥4社が自発的解体を行うことに同意する。11月6日には、GHQが三井、三菱、住友、安田の4財閥の解体に関する覚書を発表した。

これに先立つ11月1日。三菱本社は小彌太社長欠席のまま、株主総会を開催。本社解散の手続きに入るとともに、小彌太社長、彦彌太副社長の解任、新たに田中完三・三菱商事社長の三菱本社社長就任も決議された。

小彌太の病状は悪化し、東大病院に入院。この報告を病床で受ける。解散の知らせに小彌太は落胆し、病状が改善することはなかった。

そして、12月2日

秋さまざま 病雁臥すや 霜の上

の句を残し、帰らぬ人となった。66歳だった。

三菱グループの中核を担う企業が、次々と解体・分割の憂き目に遭う

三菱本社は、有価証券・不動産などの処理に多大な時間を費やし、46(昭和21)年9月30日に株主総会で議決された通り、翌10月1日に解散した。

GHQは、矢継ぎ早に手を打ってくる。12月には、財閥関連の子会社336社の資産が凍結された。こうした会社は制限会社として規定され、三菱関連では制限会社に指定された数は、総計38社にのぼった。

社名の改称だけでなく、解体・分割の命令

三菱銀行(当時)は制限会社に指定され、政府に再建整備計画書を提出。その計画書には行名を改称するという一文が記されていた。そして、48(昭和23)年、三菱銀行は千代田銀行と改称。同じく制限会社に指定された三菱信託(当時)は一時、千代田への改称を予定していたが、朝日信託銀行と改称した。

資産凍結や社名の変更だけでない。46(昭和21)年、財閥解体の実行機関として持株会社整理委員会(以下、持株委と略す)が発足する。持株委は内閣総理大臣が指定した持株会社を対象とし、その持株の整備を行うのが主な業務だったが、実態はGHQ主導の財閥会社の解体・分割だった。持株委は同年9月から約1年間にわたり、持株会社を指定した。

  • 第一次指定(46年9月6日)三井本社、三菱本社、住友本社、安田保善社、富士産業の5社
  • 第二次指定(46年12月7日)川崎重工業、日産など40社
  • 第三次指定(46年12月28日)三井物産、三菱商事、三菱重工業、三井鉱山、三菱鉱業、三菱化成工業、三菱電機など20社
(旧)三菱銀行本店。現在の三菱UFJ銀行本店の敷地内に立っていた

資産凍結はおろか三菱の商号・商標も使用不可となる

三菱商事は47年7月にGHQの解散命令が下る。その主な内容とは――。

  • 会社解散及および清算の即時開始。
  • 過去10年間に役員/取締役/顧問/内外支店長/部長であった者が、共同して会社を新設する、または、現存もしくは新設される一会社に2名を超えて雇用されることを禁止。
  • 職員が100名を超えてまとまって、新会社を組織する、または、現存する一会社に雇用されることを禁止。
  • 三菱商事の商号を使用することを禁止。

これを受け、三菱商事は47年11月30日に解散。その後、解散命令に準拠してできた“新会社”は160社を超えた。

三菱重工業は3社分割案から8社案を検討していたが、GHQの意向でほとんど1事業所1社という23社まで分割する案が浮上。これを押し返し、6社に。

結局、49年6月に、持株委は地域別の3社分割を内容とする決定指令を通知。これに基づき、同社は50年1月に東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業の3社に分割し、解散した。新しい社名に三菱の文字はない。

三菱化成工業は44年に日本化成工業と旭硝子が合併し、発足したばかりだった。GHQは当初、合併前の旧日本化成工業、旧新興人絹、旧旭硝子の3分割を内示していたが、さらに分割するよう求めてきた。同社は、これを固辞。米ソ対立の激化に伴い、GHQも軟化。結局、50年6月に日本化成工業、旭硝子、新光レイヨンが発足。三菱化成工業は清算会社となった。

三菱鉱業に対し、GHQは47年6月に7分割案を非公式に指示してきた。49年7月には、持株委より同社を石炭、金属の2会社に分割し、どちらか1社は存続し、他の1社は新設して会社自体は解散しないという指令案が通達される。これを受け、同社は炭坑事業を保有して存続する会社を日新鉱業、鉱山事業を引き継ぐ会社を太平鉱業とする申請書を提出。その後、旧社名の使用が認められ、50年4月、三菱鉱業、太平鉱業として新たなスタートを切ったのである。

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