The Monthly Mitsubishi
「マンスリーみつびし」創業150周年関連記事

特集
三菱創業150年
三菱の戦後Ⅱ
—再出発への道のり—

三菱広報委員会「マンスリーみつびし」より 取材協力/(公財)三菱経済研究所付属三菱史料館 参考資料/『国際政治経済辞典』川田侃・大畠英樹編、『三菱鉱業社史』、
『 30年史 三菱レイヨン株式会社』、『三菱銀行史』、『丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史』、
『三菱商事社史』、『新三菱重工業株式会社史』、『海に陸にそして宇宙へ 続三菱重工業社史』

米国政府による対日占領政策が実施され、三菱は財閥解体の憂き目に遭う。
三菱グループの各社は分社化を余儀なくされ、三菱を名乗ることも禁止される。
終戦後の不況が続く中、朝鮮戦争が勃発し、“朝鮮特需”で経済が活性化。
そんな中、1952(昭和27)年に財閥商号使用禁止令が解除される。
三菱の商号が復活し、再出発の機運が高まり、未来に向け新たに歩み始める。

終戦後の日本は、物不足と激しいインフレに見舞われていた。政府は財政を健全化することなく、いち早く企業を復興させようと、返済のメドの立たない補助金や復興債を大量に流し続けていた。対日占領政策を主導してきたGHQ(連合国総司令部)にも変化が生じ始める。

1948(昭和23)年に入ると、財閥解体を主導した持株会社整理委員会から解散指令を受けた会社に対し、指定を解除する動きが出始める。その背景には米国とソ連の対立が激化し、防波堤となる日本が、このまま衰退していくことに、米国自身が強い危機感を抱いたようだ。

こうした日本の不安定な経済状況に対して、米国は49(昭和24)年、GHQの経済顧問として米国デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジを日本に派遣する。そのドッジが実施した経済政策が、いわゆる「ドッジ・ライン」(下記のコラム参照)である。

ドッジ・ライン
1949(昭和24)年2月、GHQ(連合国総司令部)の経済顧問として米国デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが訪日。彼の指導に基づき、吉田内閣が実施した一連の経済政策を「ドッジ・ライン」と呼ぶ。具体的には、超均衡予算の実現、補助金などの打ち切り、復興金融金庫の新規支出の停止などである。併せて、自由主義貿易と輸出振興を名目に、複数の為替レートを改正し、1ドル=360円の単一為替レートを決定した。

「この経済政策により、インフレは収束に向かいましたが、逆にデフレが進行し、失業や企業の倒産が相次ぐ結果となりました。『ドッジ不況』または『ドッジ恐慌』とも呼ばれています」と解説するのは、「公益財団法人 三菱経済研究所」の常務理事・村橋俊樹さんである。

ところが、翌50(昭和25)年の6月に朝鮮戦争が勃発する(下記のコラム参照)。

朝鮮戦争
1950(昭和25)年6月に、南北に分断された朝鮮半島で勃発した戦争。
同年6月25日に金日成率いる北朝鮮軍が事実上の国境線と化していた38度線を越えて韓国の首都ソウルを制圧。これに対し、米国軍を中心として国連軍が支援して盛り返す。
後半は中国軍が北朝鮮を支援して参戦し、冷戦下のアジアにおける実際の戦争となる。53年に北緯38度線を軍事境界線とすることで、休戦協定が成立した。これは、現在まで続き、休戦であって、終戦ではない。

53(昭和28)年の休戦に至るまで、日本経済は戦後初の好景気に沸く。米国軍から日本へ大量の物資発注があり、輸出量が急増したのだ。いわゆる「朝鮮特需」と呼ばれるものである。

特に、鉱工業や繊維関連の生産が増大したことから「金へん景気・糸へん景気」とも呼ばれた。

「朝鮮特需」による収入は、韓国、沖縄および内地関係の駐留米国軍支出のすべてを含めると、50(昭和25)年~53(昭和28)年の4年間で24億ドル(約8640億円)に達したといわれている。

増産に次ぐ増産。生産設備も拡張

その当時、三菱グループで「金へん」の代表格といえば、三菱鉱業である。同社は46(昭和21)年に、持株会社整理委員会から解散を命ずる第三次指定を受ける。これを踏まえ、50(昭和25)年に2社に分割することを決定。ひとつは、鉱山事業を引き継ぐ太平鉱業。もうひとつは、炭坑事業を引き継ぐ三菱鉱業となった。

その三菱鉱業は、特需という好況を成長に結びつけるために総力を挙げて奮闘した。石炭需要の足取りは予想以上に早く、同社の出炭計画は再三更新された。朝鮮戦争勃発後の翌年、昭和26年度は当初500万tだったが、途中で530万tに変更。

27年度は580万t、28年度は630万tと出炭計画は膨張の一途をたどった。この時期に、併せて機械化のための設備投資を行い、高水準の採炭を実施し、業績を一気に向上させたのである。

もう1社。「糸へん」の代表格といえば、新光レイヨンである。三菱化成工業も持株会社整理委員会から第三次指定を受け、3社に分割。そのうちの1社が新光レイヨンで、50(昭和25)年に発足していた。

同社も特需ブームに乗り、この時期に業績を飛躍的に伸ばしている。生産設備の拡張も著しく、特に化学繊維・綿紡績・レーヨンステープル紡績の増設が急ピッチで進んでいる。綿紡は昭和25年に400万錘を超え、26年末には643万錘に、さらに27年末には746万錘に達した。

繊維業界全体では、生産は昭和24~26年の間に総体で2倍以上。しかも、各繊維製品とも値上がり率は驚異的で、中でも化学繊維製品の価格は最高の上昇率を記録した。

三菱の商号復活に沸く中、新たな事業を模索し、新会社をグループで支える

財閥商号使用禁止令が解除され、復活ラッシュ

日本の産業界が朝鮮特需に沸く中、51(昭和26)年9月8日に、米国サンフランシスコにおいて、対日講和条約・日米安全保障条約が調印され、翌52(昭和27)年4月28日に発効された。6年余に及ぶ占領体制が終結したのである。同年4月には、財閥の商標、5月には財閥の商号についての使用禁止が解除された。

工程設備の増設を行った新光レイヨンの工場

「この昭和27年は、まさに三菱の商号復活元年ともいえます。日本化成工業は三菱化成工業に、新光レイヨンは三菱レイヨンに、それぞれ社名を改称しました。三菱鉱業から分社化した太平鉱業が、三菱金属鉱業と社名を変更したのも、昭和27年のことです」
一方、存続会社だった三菱鉱業は金属部門を切り離されたため、新たな事業を模索していた。そこで目を付けたのが、将来的に有望なセメント事業である。
ところが、問題があった。セメントの需要が増えることは確かだとしても、既存の大手メーカーに太刀打ちできるのか。さらに、セメント事業を三菱鉱業単独で行うのか、別会社として三菱グループ各社に出資を仰ぐのか。

検討の末、別会社方式をとることとなり、54(昭和29)年2月に三菱セメントが資本金6億円(三菱鉱業51.8%、明治生命10%、三菱化成、旭硝子各8%ほか)で設立された。

1953(昭和28)年5月、定時株主総会において同年7月1日を期して千代田銀行が三菱銀行に復帰し、商標もスリー・ダイヤモンドを使用することを付議、承認を得た。その7月1日に、千金良(ちぎら)頭取は行員に向け、次のように挨拶をしている。

《顧みれば昭和23年10月金融機関再建整備法に基づき千代田銀行として再発足致しましてから茲(ここ)に4年9ヶ月、敗戦後の苛烈(かれつ)なる諸情勢にも拘(かかわら)ず幸いにも順調なる発展を続けて参りました。(途中略)この度三菱銀行の旧称に還(かえ)りましたのを契機に行員諸君に於(お)かれては心気を一新し一段と士気の昂揚を図ると共に新たなる行勢の飛躍を遂げる為に一層の奮起を期待致す次第であります》三菱の商号復帰が念願であったと同時に、三菱の名に恥じぬ決意のほどがうかがえる。

「朝日信託銀行も三菱信託銀行と改称して、新たなスタートを切っています。また、同行は社名改称に先立つ52(昭和27)年1月に、本店を新築の永楽ビルヂングに移転しています」(前出・村橋さん)

その永楽ビルヂングを手掛けたのが、三菱地所だ。同社は戦後初の本格的な大工事である東京ビルヂングを手掛ける一方、永楽ビルヂングの竣工にこぎつける。東京ビル、永楽ビルに続き、52(昭和27)年11月には、新丸ノ内ビルヂングが誕生。戦後復興の象徴として内外の注目を集めた。

1951(昭和26)年3月に着工し、52(昭和27)年11月に竣工した新丸ノ内ビルヂング

大合同して三菱商事を再興する前提で第一段階として3グループに統合

3グループに統合後に一転して4社で大合同

次に、三菱商事の復活の道筋をたどる。

旧三菱商事は、47(昭和22)年に解散。その後、解散命令に準拠してできた“新会社”は160社を超えた。

49(昭和24)年、占領時代初期の経済力集中排除政策が大幅な規制緩和となる。これに伴い、“新会社”グループの中にも変化が生じ、離合集散が活発化。水産、機械などを扱う品を中心とした合併が進む。

50(昭和25)年8月の記録では、“新会社”としてリストアップされたのは、94社、52(昭和27)年末に54社となっている。

一方で、清算中の旧三菱商事は第二次会社の正式な手続きとして、企業再建整備法に基づく決定整備計画変更許可申請書を提出。50(昭和25)年2月に正式許可となり、同年4月1日に光和実業が発足している。

この光和実業が、52(昭和27)年の財閥商号使用禁止令の解除に伴い、三菱商事に社名を変更する。また、同年に対日平和条約・日米安全保障条約が発効されたことで、旧役職員の就任制限が解除される。これを受け、旧三菱商事による合併工作が活発化していく。

旧三菱商事の社長だった田中完三、服部一郎、高垣勝次郎を中心に幹部級が会合を重ね、近い将来、大合同して三菱商事を再興する前提で、ひとまず次の3グループに集約して第1段階の統合を行うことに決定する。

  • 田中完三グループ(協和交易、新日本通商、善隣貿易、東光商事)——東西交易
  • 服部一郎グループ(旭交易、三都商事、清和商事、太平商工)——東京貿易
  • 高垣勝次郎グループ(極東商事、丸ノ内商事、都商事、明光商事)——不二商事
三菱商事(旧光和実業)、不二商事、東京貿易、東西交易の4社で交わされた合併契約書

こうして、52(昭和27)年に東西交易、東京貿易、不二商事が相次いで誕生した。そして翌年、まず三菱商事(旧光和実業)と東京貿易との合併話が進むが、12月に一転して4社で大合同することで合意をみる。
54(昭和29)年1月に合併契約書が調印され、同年7月1日に大合同を達成、三菱商事が再現したのである。

商号を復活・再出発した三菱グループ会社

財閥商号使用禁止令の解除に伴い続々と三菱の商号が復活していく

社名を変更後に、悲願の三菱三重工の合併

もうひとつ、三菱重工業の復活の経緯をたどると――。

同社は50(昭和25)年に、東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業の3社に分割され、新たなスタートを切っていた。

東日本重工業は船舶部門を軸として自動車や造機部門を発展させようとしていた。中日本重工業は旧三菱重工業の生産設備・人員の約40%を引き継ぎ、生産品目の多様化が進んでいた。西日本重工業は長崎、下関、広島の各造船所を持ち、船舶部門のウエートが極めて大きかった。

52(昭和27)年4月に対日平和条約・日米安全保障条約が発効され、同年には財閥の商標・商号の使用禁止令が相次いで解除された。これを受け、東日本重工業は三菱日本重工業に、中日本重工業は新三菱重工業に、西日本重工業は三菱造船に社名を変更、同時にスリー・ダイヤモンドのマークを掲げた。

「その後、時代は高度経済成長に入り、貿易の自由化が一段と進みます。対外競争の激化に耐え抜く企業体質の強化が求められ、各業界では合併、業務提携が活発化します」(前出・村橋さん)

そんな中、三重工合併の機運が高まり、62(昭和37)年頃から3社の会長・社長の話し合いが始まる。機が熟しての再結集は悲願だったが、大きな壁が立ちはだかる。独占禁止法の存在だ。合併により、市場占有率が高まる製品が少なくなかった。

63(昭和38)年11月29日、独占禁止法に基づく合併届出書を公正取引委員会に提出。同年翌月には公聴会が開催される。そして、64(昭和39)年1月31日、調査結果が発表された。合併を認める内容だった。

これを受け、3社はそれぞれ定時株主総会を開催する。その場で、合併を控えての処理すべき事項を提案し、承認を受ける。そして、64(昭和39)年6月1日、再び三菱重工業が発足した。

この日本最大の重工業会社となった三菱重工業の誕生は、国内外のマスコミに一斉に報じられたのである。

三菱日本重工業と新三菱重工業と三菱造船による合併契約書の調印
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