The Monthly Mitsubishi
「マンスリーみつびし」創業150周年関連記事

特集
三菱創業150年
三菱の戦後Ⅲ
—高度経済成長—

三菱広報委員会「マンスリーみつびし」より 取材協力/(公財)三菱経済研究所付属三菱史料館 参考資料/『高度成長』武田晴人、『三菱石油五十年史』、『三菱油化三十年史』、
『三菱化工機60年史』、『五十年の航跡』三菱鉱石輸送株式会社、『大日本塗料70年史』、
『ピー・エス50年史』、『三菱自動車工業株式会社史』、『万博への招待』、
『旭硝子100年の歩み』

終戦後の荒廃から立ち直った日本経済は、高度経済成長へと突き進んでいく。
三菱グループ各社は、その原動力として貢献していく。
この間、三菱の冠を付した企業が続々、誕生することになる。
経済成長を遂げた日本は、アジア初となる東京オリンピック、大阪万博を開催、
三菱グループ各社は、これらのビッグイベントにも参画していく。

主要プレーヤーとして 高度経済成長に大きく貢献、新会社も続々、誕生

「もはや戦後ではない」。1956(昭和31)年、経済企画庁の『経済白書』に登場する有名なフレーズである。副題に「日本経済の成長と近代化」を掲げたため、「経済成長」という言葉が戦後の日本経済を象徴するものとなっていく。

「昭和30年代の景気を支えた柱のひとつに電化製品があります。中でも、冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビは『三種の神器』と呼ばれ、人気が集中します。この時期、最も普及率が増加した代表的な耐久消費財でした」
と解説するのは、公益財団法人 三菱経済研究所の常務理事・村橋俊樹さんである。

冷蔵庫の世帯普及率は、58(昭和33)年の3%から65(昭和40)年には51%、洗濯機は25%が69%、白黒テレビは10%から90%に上昇した。
55(昭和30)年からの15年間の実質経済成長率は年平均10.4%、68(昭和43)年に世界第2位のGNPとなり「東洋の奇跡」といわれた。

「高度経済成長の重要な要因は、企業による設備投資があり、また高品質・低価格の製品輸出による貿易の拡大と旺盛な個人消費の増加がありました。設備投資は、電力・機械・鉄鋼・化学・石油など多くの産業で行われました。投資は、技術革新により労働生産性を高め、コスト低下により国際競争力を向上させ貿易が拡大しました。また、企業の利益増大により労働者所得が上昇、個人消費につながりました。さらに、高付加価値の産業が比率を高め、経済成長を加速させました。こうした中、三菱グループ各社は、主要プレーヤーとして、高度経済成長に大きく貢献していきました」

高度経済成長
日本経済は1955(昭和30)年頃から好景気に沸く。国際収支の大幅改善と物価の安定がもたらした「数量景気」。その好景気は「神武景気」に引き継がれる。いったん「ナベ底不況」に見舞われるが、投資が投資を呼ぶ「岩戸景気」を迎える。その後、「40年不況」を迎えるが、それを乗り越えると70(昭和45)年まで続く「いざなぎ景気」が到来。こうした著しい経済成長は73(昭和48)年頃まで続き、石油危機で終焉を迎える。その間の約20年を高度経済成長と呼ぶ。

エネルギー革命とイノベーション

高度経済成長は、さまざまな革命を引き起こす。そのひとつが、エネルギー革命。石炭から石油へという大転換である。背景には、中東で大規模な油田が次々と発掘され、タンカーの発達により安価な石油を大量輸送できるようになったことがある。

三菱石油(現・ENEOSホールディングス)は、この大転換期に果敢に動く。51(昭和26)年に精製設備の近代化計画を立て、推進。翌52(昭和27)年には、川崎製油所に第2常圧真空蒸留装置を新設。54(昭和29)年に、原油処理能力の大幅増強を図る傍ら、高オクタン価のガソリンを製造するプラットフォーミング装置を完成させ、同製油所は近代的な製油所としての体制を固めた。さらに、59(昭和34)年には岡山県・水島に新製油所の起工式を挙行した。

近代的な設備を整えた川崎製油所

もうひとつの革命に、イノベーション(技術革新)がある。
素材部門でこれを代表したのが、石油化学だ。つまり、化学工業原料としての石油から有機合成化学技術を活用して、エチレンや合成ゴムなどの製品を生み出す必要があった。
「56(昭和31)年4月に、三菱グループとシェル社グループの共同出資により、三菱油化(現・三菱ケミカルホールディングス)が発足しました」

同年8月には、エチレン系製品を主体とする第1期計画を策定。59(昭和34)年には三重県・四日市工場が完成し、本格的な稼働に入った。

三菱化工機も、イノベーションで飛躍的な成長を遂げる。同社の製品に、低質重油を燃料とする大型ディーゼル船に必要な油清浄機(OP)がある。そのOPに自動化・連続化が求められ、同社は開発に着手。57(昭和32)年にセルフジェクター(SJ)を完成させ、第1号機が「箱根山丸」に装備された。その後も、次々と新型機を開発し、65(昭和40)年にはOP・SJ合わせ累計で5000台を突破した。

社名に三菱を入れる企業が続々、誕生

この高度経済成長に伴い、三菱の企業が続々誕生する。三菱鉱石輸送も、その1社である。
前身の千代田鉱石輸送が設立されたのは、59(昭和34)年。その前年から八幡製鐵の下に、三菱商事、三菱鉱業(現・三菱マテリアル)、三菱造船(現・三菱重工業)、三菱海運(後年日本郵船と合併)の首脳が集まり、チリで採掘された鉄鉱石を日本へ輸送する会合が行われた。
60(昭和35)年に千代田鉱石輸送の「さんたるしあ丸」が就航。3万5560重量tの本船は、当時、日本最大の鉱石輸送船だった。ただし、本船の運営については、一切の実務を三菱海運に委託していた。その三菱海運が、64(昭和39)年に日本郵船と合併。それを機に、三菱鉱石輸送と社名を変更。併せて、三菱海運に委託していた船舶の管理・保全・運航に関する業務を執り行い、三菱鉱石輸送は外航海運会社として、新たなスタートを切ったのである。

1960年3月25日に行われた「さんたるしあ丸」の命名・進水式
高度経済成長の間に誕生した三菱グループ各社
1956(昭和31)年
三菱油化(現・三菱ケミカルホールディングス)
1962(昭和37)年
三菱レイノルズアルミニウム(現・三菱アルミニウム)、三菱プレシジョン、三菱液化瓦斯(現・アストモスエネルギー)、三菱樹脂(現・三菱ケミカルホールディングス)、三菱江戸川化学(現・三菱ガス化学)
1964(昭和39)年
三菱鉱石輸送
1970(昭和45)年
三菱自動車工業、三菱総合研究所

東京オリンピックの開幕に向けて、三菱グループの企業が施設やインフラを整備

高度経済成長の最中、1964(昭和39)年10月10日に東京オリンピックが開幕した。アジアで開かれる初の五輪で、93の国・地域が参加し、20競技163種目が行われた。
日本は16の金メダルを獲得し、米国、旧ソ連に次いで3位だった。中でも、“東洋の魔女”の異名をとる日本女子バレーボールチームの活躍には、日本中が熱狂。ソ連との決勝戦では、相手の強烈なスパイクを“回転レシーブ”で拾い、見事、金メダルを獲得した。

東京オリンピックの開会式で入場する日本選手団。女子バレーボール、ウエイトリフティング、体操男子跳馬など、日本は16の金メダルを獲得した ©マガジンハウス

オリンピック開幕に貢献した三菱の企業

日本は、この東京オリンピックのために総工費159億円をかけて国立競技場、日本武道館、国立代々木競技場、駒沢競技場などを相次いで建設。その武道館と代々木競技場の屋根の塗装は、大日本塗料が担当した。「施設だけではありません。東海道新幹線の営業開始、東名・名神の両高速道路の開通、都内では首都高速道路の建設など関連工事が行われ、総投資額は約1兆円であったといわれています」(前出・村橋さん)

その首都高速道路の建設に貢献したのが、ピー・エス・コンクリート(現・ピーエス三菱)だ。52(昭和27)年に設立された同社は、プレストレストコンクリート(PC)技術など、橋梁や橋桁の製作に高い技術を誇っていた。
同社は首都高速1号(羽田)線の116工区の高架橋を手掛け、62(昭和37)年に完成させる。さらに、同4号線432工区の千鳥ケ淵も翌年に完成。これは、三宅坂付近の空き地で製作したプレキャスト単純桁を、ピアの上で連結させる構造で、桁高を低くできるメリットがあり、当時としては画期的な手法だった。
完成した橋梁は、従来の直線的線形ではなく、クロソイド曲線に緩やかなカーブを描いている。この橋梁の完成は、同社に大きな技術的成果をもたらした。

皇居のお堀にほど近い首都高速4号線432工区。画期的な手法で完成した

自動車産業の波に乗り分離独立し専業体制

1972年5月20日、水島自動車製作所でキャンター生産10万台達成記念式が挙行された

昭和40年代に入ると、「三種の神器」からバトンを引き継ぐように「三C」が普及していく。自動車、カラーテレビ、クーラー(冷房)である。ニーズに応えて誕生したのが、三菱自動車工業である。元は、三菱重工業の自動車部門だった。
68(昭和43)年に「自動車部門分離委員会」が設置され、本格的な検討に入る。構想がいくつか検討され、そのひとつが会社分離構想で、100%子会社にして分離独立する方式がとられ、70(昭和45)年に、三菱自動車工業が誕生した。この時点でトラック、バス部門においては30%以上のシェアを占め、業界における地位を確立していた。また、乗用車部門もギャランやミニカ70が好評を博していた。そこから自動車専業体制を敷くことになる。

グループ結集の三菱未来館に子どもたちが大興奮

子どもたちに大人気。三菱未来館

高度経済成長の末期、70(昭和45)年、大阪・千里で日本万国博覧会(略称『EXPO’70』)が開催された。東京オリンピック同様アジアで初めて開催された国際博覧会である。
万博には77の国・地域、国際機関などが参加し、期間中の入場者は6421万人余となった。テーマは「人類の進歩と調和」。会場の広さは330万㎡で、甲子園球場が83個すっぽり入る広さだ。

『EXPO’70』の会場。右側は、岡本太郎作の「太陽の塔」。期間中(3月15日~9月13日)の入場者数は、2010年の上海万博に抜かれるまで、万博史上最多だった ©マガジンハウス

企業のパビリオンで人気を博したのが、三菱未来館である。「『日本の自然と日本人の夢』というテーマで、50年後、つまり今年、のビジョンについて、『いかに自然と調和した文明を築いていくか』を『自然・宇宙・海洋・生活』に分け、最先端技術を駆使した巨大スクリーンと音響システムによるスペクタクルショーとして展開しました。世界各国からの観覧者は、その先見性と技術力に感動、子どもたちにも大人気でした」(前出・村橋さん)
この三菱未来館には三菱重工、三菱銀行、三菱商事、三菱電機、三菱地所、明治生命、東京海上、日本郵船、三菱倉庫、三菱化成、三菱製紙など、当時の三菱グループ35社が参画した。

旭硝子(現・AGC)も三菱未来館の建設に関与した1社だ。そればかりか、広大な敷地に立つ117のパビリオンの多くが、同社の製品と技術を採用した。同社は、この万国博覧会でガラス工事全体の実に70%を受注するという実績を残している。

具体例を挙げると、280枚の強化ガラスを使用した万博美術館、正三角形の合わせガラス580枚を用いたブルガリア館など。
ひときわ注目されたのが、超大型フロートガラス(10m×2.7m×15㎜)9枚を使った万博ホールだ。同社では、超大型板ガラスの生産を可能にする「フロート法」をいち早く導入。その後、高層ビルの壁面をすべてガラスで覆うような建築様式に多大な力を発揮していく。
万博ホールで使用された超大型フロートガラスは、同社の京浜工場(現・AGC横浜テクニカルセンター)で生産されたもので、11tトレーラーに積み込まれ、警備車に誘導されつつ、3日がかりで万博会場まで輸送されたという。

『EXPO’70』の万博ホールに使用された旭硝子(現・AGC)の製品(グラサード施工例)
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