みにきて! みつびし

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横浜で芽吹き、日本の発展を支えた二引の旗章 ~三菱と横浜の「縁」シリーズ#1~

日本郵船氷川丸

施設DATA

  • ウェブサイト:日本郵船氷川丸
  • 所在地:神奈川県横浜市中区山下町山下公園地先
  • 三菱ゆかりの地・施設
  • 博物館・美術館
  • 三菱のあるまち

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日本郵船株式会社・明野進さん

三菱グループは、横浜市で開催される2027年国際園芸博覧会(GREEN×EXPO 2027)に出展を予定しています。実は、横浜は三菱グループ各社と深い「縁」を持つ地であり、その関係は歴史、現在、そして未来に向けてと多岐にわたっているのです。このシリーズでは、横浜の各地を訪問し、三菱グループと横浜が織りなす縁(えん/ゆかり)を紹介していきます。

第1弾は、100年以上にわたって横浜港から多くの船を送り出し、日本の発展を支えてきた日本郵船株式会社です。同社は船と港を通じて、横浜とどのような関係を築いてきたでしょうか。日本郵船歴史博物館にて勤務され、機関長の経験もお持ちの明野進さんにお話をお伺いしました。

横浜は、東京と日本の玄関口

1888年に竣工された旧横浜郵船ビル(日本郵船歴史博物館所蔵)

1885年に創立した日本郵船株式会社は、同社の源流ともいえる郵便汽船三菱会社の頃から横浜に支店を構え、集荷や船の荷役、修繕手配など、さまざまな業務を行なっていました。その頃の横浜は首都・東京の玄関口として栄えており、船会社として横浜港に臨港店を持つのは自然なことでした。当時からさまざまな船が行き交っていた横浜港ですから、横浜支店にも多くの関係者が出入りし、賑やかな声が飛び交っていたことは想像に難くありません。それゆえ横浜は非常に重要な位置づけで、横浜支店長のポストは社内でもとくに重視されていたそうです。

我が国最初の海外定期航路は、日本郵船創立の10年前である1875年に開設されました。郵便汽船三菱会社が政府の指示のもとで開設した横浜―上海航路です。海外への定期航路がなかった日本にとって、上海はアジアや世界へつながる重要なルートでした。

三菱会社の上海船は週に1便。横浜を出港し、神戸、門司を経由して1週間かけて上海に到着します。2000総トンほどある4隻の蒸気船が定期的に行き来し、日本からは綿糸、綿織物、陶器を、大陸からは原料の綿花や豆類(食料)を運んできました。

横浜港で生糸の荷役をする日枝丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

待望の航路開設でしたが、その船出は前途多難でした。当時、横浜港には米国のパシフィック・メイル社が出入りしており、アメリカ西海岸から日本を経由して上海まで、約4000総トンの蒸気船を走らせていました。当然、激しい運賃競争となりましたが、政府からの支援や鉱山事業での収益を活かして、なんとか勝利します。

幾度の困難に際し、三菱会社の社長であり、三菱グループの創業者でもある岩崎彌太郎は、社員に対して「日本のために航権を守る」という決意表明を行ったのだそう。日本郵船はその後も世界に航路を広げる上で何度も壁にぶつかってきましたが、その度ごとに横浜での奮闘の日々を思い出し、気持ちを奮い立たせたのでしょう。

上海航路開設から10年。1885年には、当時ライバルだった郵便汽船三菱会社と共同運輸会社が合併し、日本郵船会社が誕生します。この時に生まれた社旗「二引の旗章」は2社の合併を表現し、白地に2本の赤ラインが引かれました。このラインは、航路の地球横断と永続的な発展を表したものともいわれています。

横浜の被災者を救った船長の英断

1896年、横浜港から欧州へ出発する土佐丸(左)と威海丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

その後も天津、ボンベイ、欧州、シアトル、豪州と順調に航路を広げていた日本郵船でしたが、1923年9月には関東大震災が発生。横浜は東京同様に大きな被害に見舞われ、市内では火災が発生していました。そんな時、海岸に逃げてきた市民を救ったのが日本郵船をはじめとする各社の停泊船でした。船長たちは本社とも連絡が取れない状態のなか、独自の判断で彼らを救助し、一刻も早く船に収容する判断を下します。船には船医も常駐していたので、怪我人の手当もいち早く行うことができたのです。その後は、救援物資の輸送や避難者の移送のためにも力を尽くしました。災害大国である日本にとって、この時の経験は大きな教訓となっています。

横浜から世界へ。隆盛を極めた氷川丸

昭和初期、日本郵船は主要航路に9隻の優秀新造船を就航させました。氷川丸はそのうちの1隻で、横浜市(現在の横浜ランドマークタワーがある場所)にあった横浜船渠(後の三菱重工業横浜製作所)で建造され、シアトル航路に投入されました。

ときは1930年。海外渡航の手段は船しかありません。高価な船旅を担う定期船には、安全性やスピードが欠かせませんでした。なかでもシアトル行きは北太平洋北部を通過していたため、冬場はおおしけとなります。そのため、頑丈な船体や全面を二重にした船底など、世界の安全基準を先取りする配慮がなされました。

シアトルまでは12日間の長旅ですから、快適さや心地よさも求められます。船客対応の船員らは横浜支店の事務部員養成所で料理や接客マナーを学び、一等船客にはフレンチのコース料理が振る舞われました。また、船内では日夜パーティや映画鑑賞会などが開かれ、乗客たちを魅了しました。

1930〜1941年頃。横浜港を出帆する龍田丸(日本郵船歴史博物館所蔵)
マルク・シモン設計、アール・デコ様式の食堂

走り続けた氷川丸が、横浜に帰ってきた

赤十字マークが描かれた、病院船時代の氷川丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

多くの旅客たちを楽しませ、貨物を運んだ氷川丸でしたが、1941年にはシアトル航路が休止となり、海軍に徴用されます。氷川丸は特設病院船として改装され、かつての客室は病室や診察室へと姿を変えました。船体が白く塗られ、遠くからでも病院船とわかるように赤十字マークが描かれた氷川丸は、南方の激戦地に赴き、計24回の航海で3万人もの戦傷病兵を輸送しました。途中、秘密裏に兵器を運ぶようにと要請がありましたが、当時の船長は決して受け入れることはありませんでした。受け入れてしまえば、攻撃の対象となるからです。実際、多くの病院船が爆撃を受け沈没するなか、氷川丸は3度の触雷を受けながらも最後まで病院船としての責務を全うしました。

戦後の氷川丸は第二復員省(旧海軍省)に用船され、約200隻のアメリカ貸与船とともに、海外に取り残された復員の輸送にあたりました。その後は船舶運営会所属となり、大陸からの一般邦人の引揚げ輸送や、飢餓状態の国民を救うため、海外からの救援物質を運ぶために活躍したのです。

横浜港からシアトルに向かう氷川丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

1950年、氷川丸は晴れてシアトル航路に復帰。横浜港にも活気があふれます。船内にはフルブライト留学生や宝塚歌劇団らの声が響き渡り、戦後日本の復活を象徴するかのような華やかな姿を取り戻しました。そして、約10年間の航海を経て、ついに客船としての役割を終えるのです。

通常、役目を終えた船はスクラップにされますが、多くの地元住民たちから「氷川丸を残してほしい」と声が上がりました。横浜市民にとって、氷川丸はもはや横浜港の風景に欠かせない存在です。長い航海を終えて横浜港に帰還し、悠々とした姿で横浜港に停泊する氷川丸は、横浜市民にとって街の歴史を象徴するような特別な存在だったのです。ちょうどその頃、神奈川県と横浜市からは「氷川丸を宿泊施設にしてはどうか」との声もあがり、結果的に観光施設として残されることになりました。横浜の地に“永住”した氷川丸は、その後ユースホステルや結婚式場として活用され、現在は文化遺産として一般公開され、その歴史を国内外の人に伝え続けています。

横浜を起点に、ともに未来へ

横浜は東京の玄関口であり、日本郵船にとっては「ここから始まり、ここで終わる」主要航路の起点港でもあります。横浜があったことで上海との航路が開かれ、世界への道がつながり、日本における産業の礎が築かれたのです。

また、日本郵船は、横浜の港街としての発展にも貢献してきました。地方在住の船員たちは乗船の前日に横浜に泊まり、長旅から横浜に帰ってきては行きつけの店へと向かい、懐かしい港街の光景に酔いしれたことでしょう。船員たちは、船の中で一生懸命働いた分、夜の横浜で羽を伸ばしたのかもしれません。横浜には日本郵船の船員寮や社宅もあり、多くの関係者が心の故郷として慣れ親しんできました。船上のシェフの中には、引退後に思い出の地・横浜でレストランを開く人もいるほどです。

2027年にオープンする新横浜郵船ビル(完成予想図)

現在、海岸通には2代目の横浜郵船ビルが建っていますが、その隣には新たなタワー棟が生まれようとしています。2027年には日本郵船歴史博物館もこちらに移転し、日本郵船のあゆみや横浜とのつながり、海運の大切さを学ぶ場として広く開放される予定です。同時に、日本郵船の未来への決意を市民の方々に向けてお知らせする場にもなるそうです。

いつの時代も信念を持ち、先陣を切ってまだ見ぬ広い海へと飛び出してきた日本郵船。横浜を起点に続いてきた日本郵船の歴史は、この先も続きます。横浜で芽吹いた種が大きな花を咲かせるように、これからも日本郵船は横浜とともに歩み続けることでしょう。



※2024年11月29日掲載。本記事に記載の情報は掲載当時のものです。

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