みにきて! みつびし
山手に生まれ、生麦で根付き、横浜の未来を共に ~三菱と横浜の「縁」シリーズ#2~
キリングループ
訪問記を読む
三菱グループ各社と横浜との深い「縁」を訪ねるこのシリーズ。第2弾は、祖業として130年以上にわたって横浜の地でビール造りを続けてきたキリングループの中からキリンビール株式会社を訪問しました。日本のビール産業の発祥地である横浜で、キリンはどのような歴史を刻み、地域とつながりをもってきたのでしょうか。「日本のビール産業の祖」がつくったビール工場の跡地や、キリンビール横浜工場を巡りながら、横浜工場の総務広報担当千脇美月さん・塩出洋子さんにお話を伺いました。
キリンビール株式会社・千脇美月さん
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キリンビール株式会社・塩出洋子さん
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横浜の水がビール産業を生んだ
当時、日本最大の貿易港だった横浜。入港する外国船には、長い航海でも腐りにくく、ビタミンが補給できる飲料として、ビールが積まれていました。やがてビールは日本国内でも知られるようになり、居留する外国人が増えるにつれて横浜でのビール需要が高まりました。そして、日本で生産に乗り出す外国人が現れます。
その一人が、ウィリアム・コープランド氏です。醸造所を作るにあたって重視したのは、ビールの命・水が湧く土地であること。ほかの原料は輸入できますが、水だけは現地調達が必須。そして見つけたのが良質な水が豊富に湧く山手地区でした。コープランド氏は、池に流れ込む湧水を動力に水車を回して麦芽を粉砕し、麦汁を冷却するために10〜3月の寒冷期に仕込みを行うなど、横浜の自然や環境を生かしながらアイデアを搾り、ようやくビールを完成させました。
このビールは人気を博し、横浜のみならず、東京、長崎、神戸、函館、そして上海やサイゴン(現ホーチミン)など海外まで出荷され、名を轟かせました。ほかにもコープランド氏は、日本人の味覚に合うドイツ風ラガービールを造ったり、日本人の醸造家を育成したりと、まさに「日本のビール産業の祖」と呼ばれるにふさわしい挑戦を続けました。
1884年、スプリングバレー・ブルワリーは経営不振に陥り倒産してしまいますが、工場の跡地を1885年設立のジャパン・ブルワリーが引き継ぎます。「本格的なドイツ風ビール」を造ることにこだわり、原料や機械はもちろん、技師も資格のあるドイツ人を招聘するほどの徹底ぶりでした。そして完成したのが「キリンビール」です。現在でもおなじみの聖獣・麒麟をモチーフにしたロゴマークはこの頃に誕生しました。命名は三菱の大番頭・荘田平五郎。麒麟を大きくレイアウトした2代目のラベルの提案者は当時ジャパン・ブルワリーの重役で、三菱と深い関わりを持つトーマス・ブレーク・グラバーだといわれています。工場を出入りする荷馬車の幌にも大きくロゴマークが施され、宣伝カーのように横浜の街を駆け巡りました。
キリンビール横浜工場にあるキリンロゴのオブジェ
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現在のラベルの原型となった2代目ラベル
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横浜生まれのビールは横浜で造り続ける
その後は、第一次世界大戦による特需景気も後押しし、キリンビールは多くの人に愛される存在になっていきました。しかし山手の工場は1923年の関東大震災で壊滅的な被害を受けてしまいます。そんな状況でも、従業員たちは地震の翌朝から救助活動や食糧の調達にあたり、貯蔵蔵に残ったビールを市民に配ったといいます。新工場建設に際し、東京・赤羽をはじめさまざまな候補地が挙げられましたが、地元の財界人から「横浜で生まれたキリンビールは、これからも横浜で」という強い要望の声が上がり、横浜近辺で再建を目指すことになりました。
移転先に決まったのは、現在もキリンビール横浜工場のある、現・横浜市鶴見区生麦です。運河に面し、国道にも近く、付近まで鉄道の引き込み線が敷かれた生麦は、工場敷地として好条件を備えていました。用地は山手工場の5倍。キリンは生麦で新たな歩みを始めます。
「キリン横浜ビアホール」にある山手工場のレンガ
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キリンビール横浜工場の入り口横にある生麦事件碑
幕末や近代日本に大きな影響を与えた歴史的事件は、近くで起きた。
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キリンビール横浜工場の見学者入り口
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食と医とヘルスサイエンスをつなぐ「生への畏敬」
なかでも「品質本位」を掲げるキリンの象徴ともいえるビールが「キリン一番搾り生ビール」です。横浜工場では一番搾り製法を見て、味わって、体験できる工場見学を行なっており、ガイドがビールの製造工程を分かりやすく教えてくれます。知って驚くのは、ホップを入れるタイミングや量、仕込みの時間などが醸造家の五感によって決められていること。自然の恵みである素材も、ビール酵母という生き物の状態も日々異なるからこそ、全国9工場で高い品質を安定して出すために、醸造家の経験と知識、鋭い五感が必要なのです。
工場見学ツアーで見られる仕込み釜
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ツアーでは「一番搾り」シリーズ3種類を試飲できる
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四季折々の姿を見せる横浜工場内の緑道
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キリンでは現在「プラズマ乳酸菌」を中心にヘルスサイエンス分野にも力を入れており、おいしいビール造りのために磨かれた微生物の発酵メカニズムの研究成果が生かされています。自然の恵みや生命と向き合うこと。キリンが食と医とヘルスサイエンスの3領域に事業を展開する根底には、連綿と受け継がれてきた醸造哲学「生への畏敬」があるのです。
歴史は誇りへ。横浜に根付くキリン
横浜で生まれ、日本全国、さらには世界で愛されるようになったキリンのビール。その足跡は、今も横浜のあちこちで見られます。
横浜市山手にある「キリン園公園」は、もともとジャパン・ブルワリーの工場があった場所。地域の子どもたちが遊ぶそばに、大きな石碑「麒麟麦酒開源記念碑」があります。その足元にある表示板を支えるのは、かつての工場に使われていたレンガです。公園に隣り合う北方小学校の中には、1895年から1901年に実際に使われていた井戸がそのままの形で残っています。横浜の人々に親しまれたキリンビールの歴史は、今も大切に保存され、横浜の風景の一つになっているのです。
昭和12年建造の麒麟麦酒開源記念碑
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1907年頃のキリンビール山手工場
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今回特別に北方小学校の中を見学させていただくと、ビール工場の地下水槽施設や、当時のキリンビールの工場や事務所の写真など、キリンビールの源流を感じさせる風景がいくつもありました。通常は入校できませんが、横浜工場では特別に許可を得て、新入社員がこの小学校を訪れ、自社のルーツと横浜との結びつきを知るイベントを行なっているといいます。逆に小学校からも、毎年小学3年生が横浜工場へ社会科見学に行くなど、交流が今も続いています。
山手の地に残る、ジャパン・ブルワリーがビール造りに使用した井戸
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井戸の底には、今も水が満ちている
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撮影やナレーション、編集まで児童が手がけた動画を視聴する塩出さん(左)と福島先生。
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校内の取材中には、小学生が授業の一環で制作したキリンビール発祥についての動画を見せてくれる一幕もありました。「地域の誇りなんです」と北方小学校の福島先生がおっしゃるように、キリンが挑戦してきた歴史は、今も地域に根付き、その精神は脈々と新しい世代へと受け継がれているのです。
横浜を盛り上げることが恩返し
首都圏向けの生産拠点である横浜工場は、2026年に100周年を迎えます。「ここまで歴史を築きあげられたのは、地域の皆様の理解と応援あってこそ」という思いから、横浜工場は地域に開かれた工場を目指しています。営業時間内に自由に出入りできる緑道やビオトープは、ジョギングや散策、環境学習の場に。工場併設の「キリン横浜ビアホール」は、神奈川県の食材を使った料理を楽しめる場に。工場の入江川護岸に設置されたキリン桟橋は、みなとみらい地区と工場とをつなぐ海上観光ルートに。工場の敷地を地域振興に生かしています。さらに、地域のクラフトブルワリーと交流し、街全体でクラフトビール文化の醸成にも踏み出しています。人と人とをつなげ、さまざまな形で横浜を盛り上げることが、この地で育まれたキリンの恩返しの形なのです。
工場直送の「キリン一番搾り生ビール」が楽しめるレストラン
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横浜のブルワリーとキリンビール横浜工場の交流会
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北方小学校校舎前にあるKIRINロゴの花壇
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※2024年12月20日掲載。本記事に記載の情報は掲載当時のものです。
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