三菱のアート

2023.07.27

メンテナンス休館中でも楽しめる!

『三菱一号館美術館』にロートレックの仮囲い装飾が出現!!

復元建築と、低層部分に商業店舗をもつ高層ビルが隣接し、緑や花にあふれる広場も含めて賑わいのある街となった丸の内。その美しい景観の主軸ともいえるのが、赤煉瓦と石の窓枠、スレート屋根が特徴の『三菱一号館美術館』だ。「ミュージアムカフェ Café 1894」などを有するこの建物は、ただいま設備の入れ替えおよび建物メンテナンスのため長期休館中。建物は工事用の仮囲いで覆われているが、そこに大型の仮囲い装飾が出現する。

2010年春に開館した『三菱一号館美術館』は、13年間で40の展覧会を開催。左から、2010年4月6日~7月25日「三菱一号館美術館開館記念展<I> マネとモダン・パリ」、2014年6月14日~9月23日「ヴァロットン―冷たい炎の画家」、2020年10月24日~2021年1月17日「開館10周年記念 1894 Visions ルドン、ロートレック展」のポスター。2024年秋の再開館時に、どんな展覧会が企画されるのか楽しみだ。

●丸の内を日本初の本格的なオフィス街に

『三菱一号館美術館』が開館したのは2010年4月6日。西洋化の波が一気に押し寄せた明治時代に、丸の内という街の歴史とともに歩んだ「旧三菱一号館」(竣工時の名称は「第一号館」)という地上3階建ての建物を可能な限り忠実に復元し、ミュージアムショップやカフェを併設した美術館である。ここで「旧三菱一号館」についておさらいしてみよう。

明治27(1894)年に開館した「旧三菱一号館」は、東京で丸の内というビジネス街づくりを先導する形で建設されたオフィスビルだ。

この一帯は、江戸時代初頭までは入江であり、天下普請による埋め立てにより大名の上屋敷が建設された土地。明治という新しい時代とともに官有地となっていたが、民間へ払い下げられることになった際に名乗りを上げたのが、渋沢 栄一や大倉 喜八郎、三井 八郎右衛門などの有力資産家、そして三菱第二代社長の岩崎 彌之助だった。

●設計は日本“近代建築物の父”ジョサイア・コンドル

三菱社は土地を入手した年の9月頃、本社内に丸ノ内建築所を設置、同月には工部大学校造家学科の第1回卒業生だった建築家の曾禰 達蔵が入社する。曾禰の工部大学校の恩師でもあったイギリス人建築家、ジョサイア・コンドルが三菱の建築顧問に就任。そしてコンドルの指揮により、今や日本屈指のオフィス街となった東京丸の内に、初のオフィスビルとして「旧三菱一号館」が建設されたのだ。

「日本近代建築の父」とも呼ばれるジョサイア・コンドル。明治10(1877)年、24歳で日本政府の要請により来日。鹿鳴館やニコライ堂をはじめとする数多の洋風建築を手がけ、教育者としても曾禰 達蔵や辰野 金吾など優秀な建築家を育てた。その作品である三菱第三代社長・岩崎 久彌の茅町本邸は、現在旧岩崎邸庭園として一般公開されている。

●「一丁倫敦」と呼ばれた美しきオフィス街

左右非対称なデザインや寄棟屋根、赤煉瓦に白い石での窓枠など、イギリスのヴィクトリア時代を代表するクイーン・アン様式を用いた「第一号館」に続いて、馬場先通りに「第二号館」、「第三号館」、そして東京商業会議所が次々に建設された。いずれも様式や棟高などは「第一号館」の設計が踏襲され、明治40年頃にはその景観から「一丁倫敦(いっちょうロンドン)」と呼ばれるように。丸の内はまさに美しきオフィス街となったのだ。

明治27(1894)年、東京・丸の内初のオフィスビルとして誕生。現在と同様、馬場先通りと大名小路に面したL字形3階建ての建物だった。陸軍の練兵所となっていた大名屋敷跡地に、この洋風建築が出現したときの人々の驚きや未来への期待感はいかほどだったか。

この建物に、三菱合資会社の本社が入居したほか、階段でつながった棟割長屋の部分が事務所として貸し出され、当時の名だたる企業がオフィスを構えたという。

建設から74年後の昭和43(1968)年、戦後の高度成長によるオフィス需要の拡大や老朽化などのため解体。しかし、その際に解体実測図の作成や記録撮影、一部部材も保存されていた。これは、「いずれこの建物を再び」という思いがあったからかもしれない。そして、それは現実のものに…。

●解体から40年以上を経て、ほぼ原位置に可能な限り忠実に復元!

高層ビルが立ち並ぶ丸の内エリアにあって、独特の存在感を放つ『三菱一号館美術館』。馬場先通りに面した南面(写真左側)と、大名小路に面した東面とでL字形をつくる建物で、隣接する「丸の内パークビルディング」(低層階は「丸の内ブリックスクエア」という商業施設)との中庭側に美術館の入り口が。現在は仮囲いで覆われているが、かつての姿(上のモノクロ写真)と見比べても、可能な限り復元されていることがわかる。

平成16(2004)年に始まった「丸の内再構築」の一環として、かつて「旧三菱一号館」があった区画に建つ「三菱商事ビルヂング」、「古河ビルヂング」、「丸ノ内八重洲ビルヂング」を建て替え「旧三菱一号館」を復元、美術館として生まれ変わった。それが現在メンテナンス休館中の『三菱一号館美術館』というわけだ。同区画には、商業ゾーン「丸の内ブリックスクエア」を有する高層ビル、「丸の内パークビルディング」も建ち、現在の景観をつくりあげている。

復元には、コンドルを含む明治期の図面、解体時に残された貴重な史料が大いに活躍。外装や内装、構造に加え、ディテールの意匠の再現や、かつて使われていた部材の再利用などもされている。

例えば、館内の中央階段に用いられている石の手すり。復元にあたり、一部はオリジナルの部材が用いられている。解体時の破損や経年変化などもあったため、保存部材のなかから現在の建築基準を満たすものを厳選し、新たにつくった部材とあわせて使用したのだ。

美術館の中央階段。手すりの色の濃い部分が「旧三菱一号館」時代のもの。解体図と保存部材に記されていた合番をもとに、当時と同じ場所に取り付けられた。

復元された旧銀行営業室は、2024年の再開後も変わらずカフェとして営業。木製の柱頭装飾は保存されていた部材をもとに復元したもの。格天井とともに、創建時と同じワニス塗りで仕上げている。

左/ガス灯の照明を使用していた明治時代、ガスの供給がない昼間は外光を取り入れるため、光を通す意匠の鉄骨階段が有効だった。
中/スレート(薄い石でできた屋根瓦)による屋根。当時は宮城県産の天然スレートを用いたが、復元部材にはスペイン産を採用。エッジのやわらかさを再現するため、機械ではなく手作業でカットされている。
右/構造煉瓦210万個、化粧煉瓦20万個、合計230万個の煉瓦を使用。明治時代の滑らかでしっとりした質感や色を再現している。積み直しや修正がきかないため、選抜技量試験をパスした腕利きの職人だけが1日に約100人も集められたという。

復元されたジョサイア・コンドル設計の「三菱一号館」。美術館では普段公開していない場所も含め、建築の見どころを解説付きで見学できる「館(やかた)ツアー」を毎月開催していた。再開後も継続されるとのことなので、展覧会とともに楽しみにしたい。

●8月1日から約1年間は、一号館広場の景色がロートレック一色に!

かつては平日のビジネスタイム以外は閑散としていたという丸の内。現在はオフィスワーカーだけでなく、買い物やグルメを目的に来る人や観光客などが集まる、多彩な街になった。東京駅から歩いて行ける『静嘉堂@丸の内』、『三菱一号館美術館』に加えて仲通りでのイベントなど、アートやエンターテインメントも楽しめる。

『三菱一号館美術館』は2024年の秋まで休館中だが、その間のお楽しみとして8月1日(予定)にお目見えするのが、広場側2面を大きく飾る仮囲いだ。

工事用のメッシュ素材の仮囲いなどを利用し、『三菱一号館美術館』が所蔵するトゥールーズ=ロートレックの28作品に描かれた人物をコラージュしたもので、当館のロゴをデザインしたグラフィックデザイナーの服部 一成氏が作成。高さ14.4メートル、総面積1250平方メートルという巨大なこの仮囲い装飾は、『三菱一号館美術館』に隣接するブリックスクエアで食事をしたり、一号館広場のベンチで休憩したりする際に新たな景色として目を楽しませてくれるはず。

「旧三菱一号館」が創建された1894年と同時期である、19世紀末のパリのにぎわいが再現されたようなこの仮囲い装飾が見られるのは、2024年夏までの約1年限り。今しかできないワクワクするような体験を、ぜひ!

『三菱一号館美術館』の、広場に面した北西面(左)と南西面(右)に出現する、服部 一成氏による大型仮囲い装飾。

三菱一号館美術館

三菱一号館美術館プレスリリース 三菱一号館美術館休館

東京都千代田区丸の内2-6-2

ホームページ https://mimt.jp/

※2024年秋まで休館中