トップインタビュー

2023.06.22

アストモスエネルギー

出光時代には8年がかりの超難関プロジェクトを実現!

エネルギー環境激変のピンチをチャンスに変えていきたい

三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。第3回はアストモスエネルギーの山中 光代表取締役社長に、これまでの会社員人生で最も印象に残っている出来事や、同社が目指す新しいエネルギー社会への思いを聞いた。

グリークラブで鍛えたよく通る声やすっと伸びた背筋が印象的な山中社長。取材には企業カラーのネクタイ姿で現れた

アストモスエネルギー 代表取締役社長
山中 光(やまなか・みつる)

1962年、広島県生まれ。1985年、同志社大学商学部を卒業後、出光興産に入社。出光アジア社長、ニソンリファイナリ-・ペトロケミカルリミテッド社長などを歴任し、2019年にアストモスエネルギー取締役コーポレート本部副本部長となる。その後、常務取締役国内事業本部副本部長、同国内事業本部長を経て2023年1月より現職。

――山中社長のご挨拶のなかにはサッカーW杯カタール大会などスポーツの話題がよく出てきます。スポーツはお好きなのですか?

山中サッカーの日本代表がW杯初出場を果たしたフランス大会の年(1998年)に、出光興産でポルトガル駐在になりました。着任したのが6月で、ちょうど大会期間中でしたね。当時の日本ではスポーツというとまだまだ企業のイメージが強かったのですが、サッカー大国のポルトガルでは地域に密着する形でサッカー文化が根づいていて、クラブ運営なども含めて本当に素晴らしいなと思い、一気にファンになりました。今もJリーグなどサッカーの試合は比較的よく見ています。あのときポルトガルに赴任していなかったら、サッカーに興味を持つことはなかったかもしれません。

グリークラブの活動に明け暮れた大学時代

――学生時代に打ち込んだことはありますか?

山中同志社大学時代はグリークラブ(男声合唱団)に所属していました。早稲田・慶應・関西学院と「東西4大学」と称して持ち回りで演奏会を開催していましてね、会場は東京が東京文化会館、大阪がフェスティバルホールというプロ仕様の大きなホールでしたが、それが毎回、満員になるんです。学生団体とは思えない人気ぶりでしたが、それだけに活動も本格的でした。有名な先生方に指揮をしていただいたり、発声や歌詞の子音・母音の処理の仕方などのボイストレーニングを受けたりしたのはいい思い出です。当時は部員が約80人、男性ばかりですから体育会系に近い雰囲気で、上下関係も厳しかったですね。振り返ると、学生時代は勉強というよりグリークラブの活動を4年間必死でやっていた印象です。やり切った感があり、卒業後にどこかの合唱団に入ろうとは思いませんでした。同期が23人いるのですが、今でもたまに集まって、余興で歌うことはあります。

――商学部を卒業されたあと、当時の出光興産に入社されました。エネルギー企業志望だったのですか?

山中商学部では「貿易業務論」のゼミに入っていました。担当教授は商社から大学に転じた当時では異色の方で、著書に書かれていたエピソードが心に残っていたんです。教授の商社マン時代のビジネスの相手だったインド人の方がこう話したそうです。「自分の国籍はインドだけれど、国籍がどこかは関係なくコスモポリタンになりたい」。あの頃はコスモポリタンというカテゴライズが新鮮で、海外業務に携わりたいという気持ちが強くなりました。商社などを中心に就職活動を行い、最初に内定をいただいた出光興産に入社を決めました。その前は同志社大学からの採用はあまりなかったらしいのですが、私の同期は6人内定が出まして、「お世話になります」とお伝えしたのが6番目だったせいか、「君はうちに来ないと思ったよ」と嫌みを言われました。出光興産はクセの強い企業で正直悩んだのですが、今考えると私には商社よりもメーカーの方が肌に合っているように思え、悪くない選択でした。

40代はベトナムの製油所建設に全力投球

――海外事業のグループリーダーを長く務めていらっしゃいます。当時を振り返り、一番印象に残っているエピソードをお聞かせください。

山中2005年に新規事業推進室の海外事業グループに異動になりました。そこで担当したのが、今も運営しているベトナムのニソン製油所のプロジェクトです。私たちは「グラスルーツ(草の根)」と言うのですが、本当に何もないところからのスタートでした。
着任早々現地へ飛んで先方と話し合いましたが、あまりにも規模の大きな案件でしたので、帰国して上司に「無理だと思います」と報告しました。しかし、相手がペトロベトナムという国営石油会社で、出光興産とは長年共同で石油開発を手掛けてきた間柄ということもあり、上司からこう言われたのです。「そう結論を急がなくてもいい。まずはフィジビリティスタディ(事前調査)をしっかりやって、それで難しいということになったら、結果を丁寧に伝えてお断わりするのが誠実なやり方じゃないか」。その頃の出光興産は経営再建のために上場に踏み切ったばかりで、天坊昭彦社長が「構造改革はさんざんやってきたから、これからは投資の時代だ」と言って、経済が右肩上がりの東南アジア諸国の成長エンジンを会社の中に取り込もうとしていました。上司の発言の背景には、こうした社内の方針転換があったのかもしれません。半面、社内にはプロジェクトの継続を批判する声も多数ありました。そのなかでペトロベトナムとジョイントスタディを行う契約を結び、社内の技術や法務・財務・商務の専門家を現地に連れていって先方が用意していたコピー不可のキングファイル10冊くらいの資料を手分けして読み、プロジェクトの方法論やアイデアをまとめるところから少しずつ稼働していったんです。

――大変なプロジェクトだったんですね。最終的にどれくらいの年月を要したのですか?

山中コンフィギュレーション(製油所のデザイン)を作成するに当たり、この事業を行うなら必要な原油はこれ、販売先はここ、というふうに当たりをつけ、出光一社では対応できないので産油国や石油化学事業を行う企業をパートナーに迎え入れることになりました。そして、出光興産、ペトロベトナム、クウェート国際石油、三井化学の4社による合弁会社(ニソンリファイナリ-・ペトロケミカルリミテッド)を立ち上げました。それが2008年ですから、既に3年かかっています。
そこからお金の話になるのですが、これはもっと大変でした。日系のJBIC(国際協力銀行)やNEXI(日本貿易保険)などを中心にプロジェクトファイナンスをつけようと、当時の東京三菱銀行(現三菱UFJ銀行)にファイナンシャルアドバイザーになってもらいました。資金調達には政府の保証が必要ということで、交渉は最終的に合弁会社対ベトナム政府という構図になりました。銀行が提示する条件は厳しいですから、容易には進みません。ベトナム側には「自分たちも同じ舟に乗る仲間だし、最後まで一緒にやり遂げたい。でも、お金がつかなければどうにもならないわけだから、のめるところはのんでもらえませんか?」と説得し続けました。銀行にも多少は歩み寄ってもらってようやく話がまとまったのが2013年。トータルで8年にわたる歳月を費やしたわけです。私自身、当初はプロジェクトの成立に確信があったわけではありませんが、銀行の条件を通すことで社内の理解と納得も得られると思っていました。決してずるずると引っ張ったわけではありません。むしろ、生活のすべてをなげうって、それこそ移動の飛行機の中でもずっと仕事をしていました。体力的にもきつかったですが、若かったからできたんでしょう。
プロジェクトは、日揮ホールディングスと千代田化工が軸となった建設コンソーシアムとの交渉も大変タフで、最後の最後まで気が抜けませんでした。しかし、最後はもう達観した心境でしたね。社内の仲間もそうですし、合弁会社、ベトナム政府、金融機関、建設コンソーシアムなど、本件に関わってくれた方々の誰かひとりが欠けていても今のニソン製油所はなかったと思います。

――海外事業では、そのあと、シンガポールのトレーディング拠点である出光アジアのトップも務めていらっしゃいます。

山中プロジェクトのFID(Final Investment Decision、投資決定)を終えてお役御免になり、今度はシンガポールに異動になったんです。当時の月岡隆社長から「環太平洋で大きなビジネスをやってこい」と送り出されたのですが、行ってみたら10人くらいのこぢんまりした会社で驚きました。最初は本社から人を呼んでチームを日本人で編成しましたが、状況が分かるにつけ、トレーダーは勿論、バックオフィスで管理をする人も含め現地の優秀な人財を採用して回すようにしました。結果として従業員数は3倍になり、出光アジアという会社は「日本人もいるよね」と言われるくらいに多国籍化が進んだんです。日に日に仲間が増え、取扱高もぐんぐん増えていく。経済が急成長する東南アジアで本業(石油精製販売)に取り組むことで、この仕事の楽しさを実感しましたね。同時に、海外事業の場合、どんなに優秀でもやはり日本人だけではできることに限度があり、現地の人とチームを組んで現地の企業としてやっていくことが大変重要だということにも気づかされました。

バイオLPGや合成LPGの開発を目指す

――アストモスエネルギーではLPG(液化石油ガス)の採掘から最終消費に至る過程で発生するCO₂を、各国の環境保全プロジェクトにより創出されたCO₂クレジットでカーボン・オフセット(相殺)し、LPG使用によるCO₂排出を実質ゼロにした「カーボンニュートラル(CN)-LPG」を業界で初めて調達・輸入しておられます。脱炭素、脱化石燃料の流れのなかでアストモスエネルギーが目指すエネルギー社会について教えてください。

山中アストモスエネルギーは三菱商事のLPGユニットと三菱液化瓦斯、出光興産のLPG会社である出光ガスアンドライフの3グループが統合して2006年に設立された会社です。
当社がおもに扱うLPGは原油や天然ガスの随伴ガスで、石油や石炭よりもかなり環境負荷が小さく都市ガスとそう遜色ありません。加えて、家庭の軒先のシリンダー、工場であればバルク貯槽というちょっと大きめのタンクなどに貯蔵しておける分散型エネルギーでもあります。従来はこうした低炭素やレジリエンス性を評価していただいていたのですが、最近は残念ながら化石燃料は全部ダメという風潮になりつつあります。ただ、私は、今のようなエネルギーの転換期は会社としても大きく変わっていくチャンスではないかと考えています。ご指摘いただいたCN-LPGもそのひとつのチャレンジです。また、当社では23隻保有している運搬船についても、老朽化による交換のタイミングでLPGでの航行も可能な二元燃料エンジンの船舶に切り替えていく予定です。また先日INPEXとの間で船舶バイオ燃料の供給についても合意しました。当社の事業によるCO₂排出量の大半を占めているのが運搬船と陸路の輸送なので、ここはしっかり対応していく必要があります。CN-LPGの場合はCO₂クレジットによる相殺ですが、いずれはシリンダーやバルク貯槽の中身そのものを、化石由来でないバイオLPGや合成LPGに置き換えていきたいと考えています。その一環として今、古河電工と家畜の糞尿から得られるCO₂やメタンから創出したLPGを使用する研究を行っています。実用化は10年以上先になるかもしれませんが、大変期待の持てる技術です。
やりたいことはいろいろありますが、もうひとつ、最近の取り組みでぜひお伝えしたいのが千葉県いすみ市で大多喜ガス、関電工などと共同で進めている「地域マイクログリッド事業」です。当社はLPG発電機へのCN-LPGの供給という役回りで参画しているのですが、もともとLPGは都市ガスの届かない地域へのガス体エネルギーの安定供給を担う存在ですから、本件のような太陽光発電と蓄電池プラスLPG発電の組み合わせによる地域での電力供給システムの構築は、いろいろな方々とともに取り組んでいかなければならない課題と認識しています。もちろん、この先も大きな発電所で大量の発電を行い、細かく張り巡らされた送電網を通して電力を供給していくスタイルが基本であることは変わりませんが、一方で再生可能エネルギーとの組み合わせを含めて、地域ごとに電力や熱を供給する分散型のマイクログリッドという考え方は一段と重要性を増していくように思います。当社でも東京大学社会科学研究所の加藤孝明特任教授にご助言をいただきながら、地域の新しいエネルギー供給のあり方を模索しているところです。

――就任後の年頭のご挨拶で、経営理念の再定義を行ったという話をされていました。そちらも踏まえ、アストモスエネルギーを今後どんな会社にしていきたいとお考えになっているのか、お教えください。

山中「じょうずに未来へ。」 高い志を持って変革を続け、新しい価値を創造できているか。 社員が一丸となって皆のために何ができるか考えているか。 豊かで持続可能な社会の実現に貢献しているか――。こうした問いかけ形式の理念にしたのは、社員に自問自答してもらいたいと思っているからです。偉そうに聞こえたら申し訳ないのですが、会社の経営というのは、そこにいるひとりひとりの社員が働いて価値を生み出すこと、それ以上でも以下でもありません。ですから、自主性を持って働いている人がどれだけいるか、その人たちがどれだけチームワークを発揮するかというところが大変重要になります。幸い当社では小笠原剛前社長時代の改革が奏功して、社員がそれぞれの持ち場で主体的に力を発揮する、実にいい雰囲気になってきています。この理念を時々自分の仕事に照らし合わせながら、未来志向で前に進んでもらえたらと思います。

――ありがとうございます。最後に、『マンスリーみつびし』の読者へのメッセージをお願いします。

山中エネルギー業界は先ほど申し上げたように大きな変革の時期を迎えています。三菱グループのなかにもいろいろな動きがあるでしょう。環境やエネルギーの問題だけでなく、AI(人工知能)やDX(デジタルトランスフォーメーション)などテクノロジーの変革で、10年前には想像もつかなかったような世界がすぐそこまで近づいているように感じています。そのなかで三菱グループの各企業はグローバルに幅広い事業を展開されているわけですから、「世界は自分たちが動かす」というくらいの気概を持ってこれからのビジネスに取り組んでいっていただきたいと思いますね。