トップインタビュー

2023.08.31

ローソン

30歳の頃「社長になれない」と言われた自分が47歳で社長に!

試練を乗り越える鍵は「目の前の課題に全力投球」

三菱関連企業のトップのお考えやお人柄をお伝えする連載『トップインタビュー』。第4回はローソンの竹増 貞信社長に、三菱商事での若手社員時代のエピソードや、「変化対応業」ローソンの魅力と現状を聞いた。

世界経済フォーラム ジェンダー平等加速プログラム 日本共同議長を務める。「女性が働きやすい環境整備は男性にもメリットがある。全ジェンダーが楽しく働ける社会にしたい」

ローソン 代表取締役社長
竹増 貞信(たけます・さだのぶ)

1969年、大阪府生まれ。1993年に大阪大学経済学部を卒業後、三菱商事に入社。畜産部、グループ企業である米国豚肉処理・加工製造会社のIndiana Packers Corporation(出向)、広報部、社長業務秘書などを経て、2014年5月にローソンの代表執行役員副社長に就任。2017年3月より現職。

スーパーでマネキン販売を経験した20代

――竹増社長は三菱商事のご出身です。商事での若手社員時代にはいろいろな武勇伝があると伺っています。

竹増入社は1993年で、畜産部の牛肉課に配属されました。私が入社する数年前に牛肉の輸入が自由化され、牛肉ビジネスへの参入がしやすくなっていました。それまでは農林水産省が決めた量を商社が輸入代行する形で、ほとんど競争のない世界でした。しかし、参入障壁が下がったことで業者が一気に増え、輸入量が大きく膨らみます。その結果相場が暴落して、牛肉課は大赤字を出し解散状態になってしまいました。当時、三菱商事はオーストラリアに牧場を持っていて、そこの牛を日本に輸入して“在庫処分”する必要がありました。私にその役目が回ってきて、一人で傘下の牛肉販売会社に出向して残った牛肉を売りさばくことになったのです。その頃の常識では販売会社に出向するのは専ら定年間近の大先輩で、入社3~4年目の社員が行かされることはまずありませんでした。周囲からは「竹増は何かやらかしたのか?」と思われたようで、同期の送別会なども一切なかったですね。同期からはニューヨークやロンドンに出張が決まったとか、研修に行くといった話を聞かされ、「僕だけ出向?」と忸怩たる思いがありました。

――入社早々大変な経験をされたのですね。その後はどうなったのですか?

竹増まずは『スーパーマーケット年鑑』を買ってきて、ア行の会社から順番にアポ入れの電話をかけ、営業に行きました。しかし、会ってはくれてもなかなか販売に結びつかないので、「マネキン販売をやらせてください」とお願いしました。実際、やりました。自前でまな板、包丁、電磁調理器を揃え、手作りしたレシピ帳を持って毎週末スーパーの店頭に立ちました。「キララ・ビーフ」と書いた赤いエプロンを着けて(笑)。そうこうするうちに、意気に感じて買ってくださる方も出てきます。結果的に1年間で牛肉を売り終えました。それを見ていた豚肉課の課長が「がんばっているね。よかったらうちに来ないか」と声をかけてくださったんです。

――孤軍奮闘する姿を見ていてくれる人がいたわけですね。その後は豚肉課で?

竹増ええ。営業は得意な方だったと思います。豚肉課にいながら、隣の課の油から卵まで、頼まれれば何でも売っていました。30歳くらいで課長昇進面接を受けた時、面接官を務めた部長さんから「最近は社内の横の連携が重要だといわれているよね。君は豚肉をよく売っているけど、横の連携はどう意識してるの?」と聞かれたんです。すると、両隣に座っていた別の部長さんたちがその部長に向かって「君知らないのか? 彼は俺のところの卵も売っている」「うちの油も売ってくれている」と口を挟んでくださり、面接が大いに盛り上がったのを覚えています。しかし、実はその頃、豚肉課にスカウトして下さった課長からこんなふうに言われたんです。「君は営業担当としては素晴らしい。だが、このまま一生営業マンでいいのか? 三菱商事に入社したからには経営者になりたいと思っているんだろう? 今のままの君では経営者になれない。そこをよく考えてみなさい」

松下 幸之助の著書がビジネス人生の転機に

――厳しいお言葉ですね。それで竹増社長はどうされたのですか?

竹増ちょうどその頃手に取ったのが、松下 幸之助さんの本でした。そこには、人は皆ダイヤモンドの原石であり、上司や経営者は仲間のダイヤモンドの原石を見つけてそれを磨き上げ、自分以上にその分野で光り輝く存在にしてあげるのが仕事だというような話が書いてありました。周囲が光り輝く人ばかりになれば経営もしやすい。それによって経営者はまた次の戦略をいろいろ考えられると。当時の自分にはそうした意識が全くなかったので、目からウロコでしたね。自分のやり方が絶対だと思い、部下の話し方や電話のかけ方までいちいち注意していました。しかし、それからは部下の優れたところに目がいくようになったんです。「彼は僕なんかよりずっと頭がいい」「コツコツ努力ができて素晴らしい」と考えるようになると、それが態度にも出たのでしょう。部下との関係性もよくなって、そこから階段を一歩一歩上り始めたように思います。その後アメリカ駐在を経験して、営業に戻ると思ったら、また予想外の部署に異動になったんです。

――広報部に行かれたのですよね?

竹増ずっと営業でしたので、ある意味、20代の販売会社出向以上にショックでした。おもな仕事はメディア対応だったのですが、1年近くなじめませんでした。当時覚えた釣りをしに東京湾に舟を出して、遠くの富士山を眺めては心をリセットしていました。しかし、記者の方々とやり取りするなかで気づいたんです。広報の役割は会社の事業や活動を伝えることにとどまらない。その本質は、会社が常に社会とともに歩んでいけるように、経営が社会常識から逸脱した方向に行かないように、数百万人、数千万人の読者を抱える記者の方々を通して常に確認していく業務なのだと。広報部の機能いかんでは、一見順調なように見えても、実は社会と相反する方向に向かっていたというようなことが起こり得る。そう思うと自分は日々、記者の方々を通して社会という大きな存在と接する重要な役割を担っているんだというように心持ちも変わってきました。広報部には5年在籍したのですが、自分自身の鍛錬という意味でも、いい経験をさせていただいたと思います。ローソンの社長という立場になってからも広報部時代の経験が大いに役立っています。

――広報部の後は当時の小林 健社長(現日本商工会議所会頭)の業務秘書も務めていらっしゃいました。

竹増広報部最後の仕事が、小林新社長就任の広報でした。それがひと息ついて、当時副社長だった広報担当役員から「よくやったな。いよいよ営業に戻れるな」と言われました。異動先も決まり、挨拶回りに行こうと丸の内仲通りを歩いていたら、その副社長から突然電話がかかってきたのです。「すぐに俺の部屋に来てくれ」と言われ、会社に戻ったらその場で小林新社長の業務秘書をやってほしいと告げられました。またしても営業復帰は叶わなかったわけですが、業務秘書の仕事は広報部時代から見ていたこともあり、これは気持ちを切り替えてがんばらなければと思いました。小林社長は私をほぼすべての打ち合わせに同席させてくださったので、就任1年目で経験した東日本大震災という大きなリスクへの対処も含め、いかにして経営判断を下すかをすぐ近くで学ばせていただきました。私はその後44歳でローソンに来て、47歳で社長になりました。業務秘書時代のあの濃密な経験がなかったら、今の私はなかったかもしれません。大変ありがたく思っています。

店舗訪問は楽しい時間、多い日は10~15軒に

――いよいよローソンの話が出てきましたが、かなり前からローソンには親近感をお持ちだったのですよね?

竹増ローソンは1975年、大阪府豊中市の桜塚というところに1号店をオープンし、そこから周辺に店舗を拡大しています。私は隣町の池田市出身なので、子どもの頃からコンビニと言えばローソンという認識でした。とくに高校3年の受験生時代は、深夜、勉強の息抜きに本当によく利用させてもらいましたね。雑誌をひとしきり立ち読みして「じゃあ、もうひと勉強するか」と何も買わずに帰る。でも、家に帰った途端に眠くなって寝てしまったりするわけですが(笑)。

――当時から社長にとってローソンは「マチのほっとステーション」だったのですね。今もよくランチなどに利用されているとか。

竹増「ゆめぴりか塩にぎりセット」と「からあげクン」が定番です。おにぎりは塩たらこと昆布、おかずとして鮭の切り身やきんぴらごぼうなどがちょっと入っていて、ベーシックなので飽きないんです。

――今は業務の時間を縫って1日当たり3店舗を回っていらっしゃると伺いました。

竹増多い日は10~15軒に上ることもありますが、平均するとそれくらいですね。全県回りましたし、主要店舗は押さえています。現場回りは私にとって非常に楽しい時間でもあります。自分たちがやりたいことを、想定していた以上の形で加盟店さんが実現してくださっているのを目にした時などはとくに。一方で、もうちょっと変えていけるかなと思うことももちろんあります。私たちとお客様の接点は基本現場なので、やはり現場がどうなっているのか自分の目で見ることは非常に重要だと考えています。東京・大崎の本社で企画や立案したことを発信しながら、一軒一軒の店舗に足を運んでリコンファームし、また課題に落とし込んでいくという感じでしょうか。

――どんなふうに回っていらっしゃるんですか? お店の方の反応は?

竹増街の雰囲気も見ておきたいので、極力歩いて回るようにしています。その際、スーツにネクタイでは浮いてしまいますから、カジュアルな服装を心がけています。昨日は埼玉に行ってきました。国内でも有数の高温地帯ですから、Tシャツに短パン、スニーカーという軽装です。コロナ禍の最中に「ローソンWAY」という当社の行動指針を絵文字にしてプリントしたTシャツを皆で作ったんですね。そのTシャツを着ていきました。ある店でレジに立ち寄った際、スタッフがすごく緊張した面持ちで商品をスキャンしているんです。よく見ると手が震えている。「どうしたんですか?」と尋ねたら「社長、ですよね?」って。「……です」と答えました。私が店舗回りをしているという情報は各店舗に伝わっているらしく、「ホントに来てくれたんですね」と喜んでいただくことも多いですよ。私は訪問した先々で率先してトイレ掃除をしてきたのですが、昨日回った店で熱心にトイレ掃除をしているスタッフに声をかけたら、「あ、社長。一緒にやりますか?」と言われた時はうれしかったですね。もちろん、一緒に掃除してきました。

全店舗&全従業員が変わらないといけない

――竹増社長は加盟店や店舗スタッフのことを「仲間」と呼んでいらっしゃいます。コロナ禍でさらに信頼を深められたと伺いました。

竹増コロナの感染拡大による行動変容で加盟店さんは窮地に陥り、当社も売り上げ的に大きな打撃を受けました。しかし、その時に「座して死を待つ」べきではないと思い、緊急事態宣言が出た直後から自転車で店舗を回って、お客様やスタッフからヒアリングをしたんです。そしてお客様のニーズの変化を踏まえ、当社がいつまでに何をすべきかというタスクメニューを10以上作り、「大変革実行委員会」を立ち上げて本気の改革に取り組みました。しかし、ローソンは1万4500の店舗があり、18万人の仲間を抱えるピープルビジネスですから、大崎の本社でいくら「変わるぞ」「変わろう」と号令をかけても、18万人全員が腹落ちしないと本当の改革はできません。ですから、本部は常に現場とともにあるという思いを発信すると同時に、社長として「必ず加盟店さんを守ります」と宣言したことをやり抜かなければと心に決めました。結果的に働く時間をセーブしていただくことはあっても、コロナ禍で廃業した加盟店さんは一軒たりとも出ていません。そして、コロナの1年目から加盟店さんの利益は落としませんでした。もちろん、それは加盟店さん自身のご尽力によるところが大きいのですが。

――それは素晴らしいことです。社長はローソンを「変化対応業」と位置づけ、変化の多いこの時代に環境配慮型店舗「グリーンローソン」をはじめ、さまざまなチャレンジを重ねていらっしゃいます。

竹増大変革実行委員会の立ち上げから3年経つので、今は次の変革に向け、大きなうねりの種を現場から探し、それをまた組織に落として立ち上げていくという作業に取り組み始めたところです。「大変革実行委員会2.0」ですね。そうしたなかでやはり皆が気になるのが5年後、10年後の未来がどうなっていくかということ。そこでグリーンローソンで先鋭的な実験を次々と行い、例えばそれを年2回行っている加盟店さんを集めたセミナーで皆さんにお披露目して、これから進んでいく方向性を確認しながら足下の仕事をしっかり詰めているという感じです。少し前まではナチュラルローソンが今のグリーンローソンの役割を担っていました。
でもね、先鋭的なことに取り組むのは意外と簡単なんですよ。1店舗でやり遂げればいいわけですから。変化対応業を名乗る以上は、全店舗、全従業員が変わらないといけないと思っています。そして、それこそがローソンという組織の醍醐味でもあるわけです。実験店舗が100店舗単位の実証実験になり、それをさらにエリアの面へ、そして全国津々浦々の店舗へと広げていく。そのためには、通常業務を持つなかで皆が一丸となって取りかからないと、短期間でお客様が求めるものは達成できません。しかし、コロナ禍を経た今のローソンにはそうした困難な課題を皆で実現していく雰囲気が店舗レベルまで醸成されているように感じます。店舗をご覧いただくと、実際にいろいろ変わってきているのがお分かりになると思います。例えば、揚げ物を取るケースがセルフになりました。店内でご飯が炊ける「まちかど厨房」を備えた店舗もここに来てぐんと増えました。冷凍ケースが増え、それに伴い新開発の冷凍食品も続々投入されています。馬刺しやユッケ、カンパチやタイの刺し身もあるんですよ。

オフタイムは区民農園で汗を流す

――現場回りなどお忙しい毎日を送る竹増社長ですが、オフタイムにはどんなことをなさっているのですか?

竹増区民農園が自宅のすぐ近く、徒歩30秒くらいのところにあるんです。一昨年まではそこで家庭菜園をしていました。1区画が20㎡くらいのスペースですが、夏ならキュウリやトマト、ナス、カボチャ、オクラ、トウモロコシ、スイカ、メロン……というように、いろいろ育てていましたね。基本は有機で除草剤は使いませんから、夏場は雑草が次々生えてきて大変です。毎朝日の出と共に起床し、畑に行ってせっせと草を抜き、野菜に水をやったらもう汗だく。帰宅してまずシャワーを浴び、朝食を取ってから仕事を始めるというのが日課でした。

――本格的に農業に取り組まれていたのですね。

竹増キュウリやナスなんかはちょっと収穫をさぼっただけで、すぐ大きくなりすぎてしまうんです。それでも、周りの畑を見ながら少しずつ知恵をつけていきました。皆さん、「マルチ」という黒いビニールシートを張り巡らせて、雑草が生えないようにしていました。マルチには保温や保湿の効果もある。そこで、私も最後の方はほぼ全面マルチという状態にしていたのですが、そうすると水がまきにくくてほぼ全面池になってしまう。雑草もしぶとくて、マルチを突き破って生えてくる(笑)。そういういろいろな経験も含めて、結構楽しくやっていました。収穫したキュウリで酒のつまみを作ったりもしましたね。

――竹増社長ご自身で料理をされるのですか?

竹増ええ、何でも作りますよ。得意料理をひとつ挙げるならパスタですね。料理をするようになったのは、三菱商事時代に米国のインディアナ州駐在になったことがきっかけです。米国東部内陸部のインディアナ州はほとんどが大平原で、気の利いたレストランなどありません。会社のあった町も、ファストフードやピザのデリバリー、中華料理店くらいです。州都のインディアナポリスまで行けばイタリアンのお店もありましたが、高速道路を使って1時間ほどかかります。とくに冬期は寒すぎて外出もままならない。家にいてもやることがないので、リカーショップでワインを買い込み、料理本の1ページ目から順番に作っていったりしました。今でも愛読しているのが、日本のイタリアンレストランの草分け的存在の『アルポルト』のオーナーシェフ、片岡 護さんのレシピ本です。

――きっとお料理もお上手なのでしょうね。さて、本日は大変興味深いお話をありがとうございました。最後に、『マンスリーみつびし』の読者へのメッセージをお願いします。

竹増グループ36社の中でも、ローソンは最も皆さんの身近に存在する会社のひとつです。「これから帰って晩ご飯どうしよう?」「明日のお弁当どうしよう?」という時には気軽に近くの店舗をのぞいてみてください。先ほどお話ししたように、以前のコンビニのイメージとは大きく変わってきています。
私からご提案したいのは、試しに3日間、「ローソンだけ生活」を送ってみることです。朝のおにぎりやサンドイッチ、昼のお弁当はもちろん、夜の晩酌に至るまで、あらゆる食需要に対応しています。お酒はワインに焼酎に日本酒、つまみも冷凍食品が充実していますから一人でも仲間とでも「おうち居酒屋」を楽しんでいただけます。口に入れるものだけではありません。下着や靴下など身につけるものは「無印良品」、化粧品は韓国の人気ブランド「&nd by rom&nd(アンド バイ ロムアンド)」などが置いてあります。実際に体験されたら「ローソンだけで3日間暮らしてみた」といったレポートをぜひ、SNSに投稿していただけるとうれしいです。万一何か不都合があったら、こっそり私に教えてください(笑)。今後とも、ローソンへの温かい応援&サポートをよろしくお願いします。